「明日は望美が放牧行くって言ってるから宜しくな」
寝る前に宣言された言葉に、九郎は驚いて瞬く。
「おい、なんでそうなるんだ!」
「細かい事は気にすんな」
「気にするぞ!」
眉を吊り上げる九郎の言葉も分からなくはない。
この季節、モンゴルは秋を一足飛びに越えて冬支度へと入ったに等しい。そんな寒空へ、しかも夜明けの最も寒さが厳しい時間に女性が外へ出るなど、たとえ相手が望美だろうが望美ではなかろうが、九郎的に許せる事ではない。
「んー、俺はなぁんにもキコエナーイ」
両手で耳を塞ぎ、自分のゲルへと足早に逃げていった将臣の背を睨みつけると、九郎も自分のゲルへと足を向けた。
分厚い布の入り口を潜って中にはいれば、いままで話題になっていた少女は既に夢の世界へと旅立っていて、そのあどけない寝顔に、九郎は小さく溜息を零した。
将臣から聞いた言葉の意味を問いただそうと思っていた気勢が削がれ、苦笑に似た表情で彼女の頬へ指を伸ばす。触れる直前で、外に居た自分の手が冷え切っているだろう事を思い出して、指を握りこむ。起こしてしまうのは本意ではない。
「全く、望美も何を考えているのだか……」
手早く就寝の準備を終えると、九郎は出来るだけ冷気が入り込まないように気をつけながら敷布を捲り、望美の隣へと、その身を横たえるのだった。
翌朝。
予想通りになかなか起きない望美を、怒ったり宥めすかしたりしながらようやく目覚めさせ、ついでに彼女の身支度も手伝ってやってから、二人は朝の放牧へと出かける。
放牧と言っても、今日の仕事は飼っている馬を広い草原で走らせてやる程度である。だからこそ、普段同行しない望美でも行く事が可能なのだ。
十頭ほどの馬と、そして普段家畜を追い纏める大型犬たちが、朝日が昇る前の大地を鳴らして駆け抜けていく。馬たちは大人しく一列になって走り、その足元を犬たちは掻い潜るようにして進む。
粗末な鞍の上でも凛とした姿勢を崩さない九郎は、動物たちの様子を気にかけながら、並走してくる望美へ視線を向けた。京にいる頃から、折を見て九郎が指導をしていた甲斐もあり、望美の騎乗姿はなかなか様になっている。
「大丈夫か?」
「うん、平気ですよ! 寒いけど、気持ち良いね」
長い髪を邪魔にならないようにきっちりと結わえている望美は、起用に手綱を操りながら、九郎の傍へと馬を寄せた。
「あの木のあたりまで行くんですっけ?」
「ああ、そこで少し休ませてから戻る」
「はーい。じゃ、先に行きますね!」
「あっ、おい、望美!」
言うと同時に拍車を入れ、馬の速度を上げる望美に、九郎は慌てて声をかける。
九郎が乗るものより小柄だが、瞬発力に優れている望美の青毛馬は、あっという間に後姿を遠ざけていく。仕方がないなと呟き、九郎も足元をついて走る黒犬に「いくぞ」と声をかけてやってから、馬に指示を出すのだった。
木のあるあたり、と示した場所は、少し高い丘のようになっている。夏の間は、放牧の間の休憩場所として豊かな木陰を供してくれたその枝も、秋となった今は太い幹が覗くのみである。
その木の根元で、望美は騎乗したまま九郎の到着を待っていた。
「やっぱり九郎さん速いですねぇ。流石だなぁ」
笑って告げられる言葉に、九郎は『急に走るな』とか『一人で行ったら危険だろう』とか、色々あった文句をそのまま飲み込んだ。別に朝早くから説教がしたいわけではない。むしろ、なかなか起きない望美を既に怒鳴っているので、これ以上はやめておくかと仏心を出したというのが、正しいかもしれない。
「……まぁ、武士の嗜みだしな」
「馬に乗っている九郎さんは、すごく格好いいですよ」
数秒遅れて、九郎の顔がぱっと薄赤く染まる。それを見て望美は「九郎さんかわいなぁ」と前言を翻すような事を思うが、その言葉はそっと胸の奥に秘めておく。多分言ったら言い合いになるし、今日はそれよりも先に言わなきゃいけない大事なことがあったからだ。
ふと視界の端が赤く染まったような気がして視線を動かせば、遥か彼方から朝日が昇ろうとしていた。
「日が昇るな」
九郎も気付いたのだろう。言葉短かに言うと、望美の傍へ馬を寄せる。
「こっちへ来ないか?」
促すように手を伸ばせば、小さく笑って、望美がその身体を九郎へ委ねる。本当ならば騎乗のままで位置を移るのは危険なのだが、二人の乗る馬は大人しくよく慣れていたし、望美も緊張や恐怖で身体を強張らせる事もなかったので、あっさりと移動は成功した。九郎の腕中に抱かれるようにして座りなおした望美は、乗ってきた馬の手綱を近くの枝へ引っ掛けてから、改めて朝日へと視線を向ける。
ぐんぐんとその位置を高くしていく曙光を眩しげに目を細めて見遣りながら、望美はゆっくりと口を開いた。
「九郎さん、今日はわがまま言ってごめんね」
「今頃になってどうした」
今更何を言うんだ、と言わんばかりの口調で九郎は応じる。
彼女の大小様々なわがままは聞き慣れていたし、どちらかといえば望美の口走る我侭は、大半が可愛らしい「ねだりごと」に近いものがばかり。叶えるのは男の甲斐性だろう、とヒノエや将臣なら笑い飛ばしかねないような甘い睦言で、九郎自身も言われるのは自分だからこそ――と自負していた。
だから今朝の騒動も、反射的に怒鳴り起こしたりはしたものの、見捨てずに最後まで――望美が起きて共に外出できるまで――付き合ったのも、それあればこそだ。
「でもね、今日はどうしても九郎さんと朝一緒に過ごしたかったんだ」
モンゴルでの生活で、男たちの朝は早い。
家畜の世話の大半は彼らの仕事だ。来た当時は不慣れで怪我も多かった作業は、流石にこの時期にもなれば慣れ、手早く終わるようになってはいたものの、朝の時間の殆どは費やされる事になる。
一方女たちの朝はといえば、食事や洗濯といった家事を中心としたものになる。自然と昼近くまで、彼らが顔を合わせる事はなくなってしまうのだ。
「何かあったのか?」
「心配するような事は何もないけど、でも今日は大事な日」
ぽすん、と頬を九郎の胸元に寄せて望美は笑う。
「九郎さん、お誕生日おめでとう」
囁かれた言葉はあまりにも想像外の内容で、九郎は瞬きつつ望美の顔を見下ろした。
「今日がそうだったか」
「そうですよ。ま、ここだと日付って、あまり意味がないものね」
ここでの生活は太陽の巡りが全てだ。
朝日と共に起き、夕暮れと共に家へ帰る。単純だが、生きているということを実感する繰り返しの中で、暦というものを意識する事が少なくなっていたのは確かだ。そもそも、京の習慣として生まれ日を祝う事はない。余計に縁遠くなるのも仕方のないことではある。
「すっかり忘れていたな」
「いいんですよ。九郎さんが忘れていても、私が忘れませんから」
手綱を握る九郎の手に己のそれを重ね、望美は楽しげに頷く。
「誰よりも早くおめでとうって言いたかったんです。それでわがまま言って、放牧変わってもらったんです」
望美の言葉に、九郎はそれでか――と納得の表情を浮かべる。
「そういうことなら先に俺に言えば良いだろう。将臣から急に言われて驚いたんだぞ」
「だって九郎さんに言っちゃったら、つまらないじゃないですか」
「そうかもしれないが」
なんと言おうか、言葉を選んでいる様子の九郎の眉が寄っているのを見て、望美は不思議そうに首を傾げる。
疑問に満ちた視線を向けられて、九郎は内心で吐息をついた。
上手く言葉に出来ない思いが、もやもやと彼の胸中には浮かんでいた。多分一言で片付ければ『嫉妬』に落ち着くのだろう。放牧の当番の相手だったから、という事もあるだろうが、最初に将臣へ望美が話した――という事に、微かな苛立ちを覚えていた。恐らくそれは、彼らが同郷であり、九郎の窺い知らぬ絆があることへの永久に消せない妬心なのだ。
そうやって考え込んでいたら、唐突に望美が九郎の眉間に指を突き立てた。
「――ッ!」
「もう! 拗ねないで下さい」
間近に顔を寄せ、望美は九郎を叱りつけた。
「拗ねてなど……!」
「じゃあこの眉間の皺はなんですか~?」
「っ、こら、痛いから止めろ!」
ぐりぐりと指を動かす望美の手を掴み、九郎は大きく息を吐き出した。
「全く、お前は変わらないな」
口より先に手が動く、と呟けば、けろりと望美は首肯する。
「そうですよ。変わりませんよ。ずっと変わらずに、九郎さんだけが好きです」
腕を掴む九郎の手へ反対側の手のひらを重ね、望美はぎゅっと握り締めた。
「たまたま将臣くんだっただけです。それがリズ先生でも、譲くんでも、弁慶さんや敦盛さんだって。誰だったとしても、今日九郎さんと出かける役目は譲りません。九郎さんだから、ですよ」
口にしなかった葛藤は、しっかりと望美にばれてしまっていたらしい。
九郎はばつの悪そうな表情で項垂れた。
「……すまない」
「九郎さんが謝る事ないです。むしろ嬉しいかな。――妬いてくれたんでしょ」
含み笑いを漏らす様は年齢よりも幼く見え、それでいて濡れたような艶も含んでいて、九郎は思わず息を飲む。
腕の中の少女はいつだって、その太陽のような輝きで彼の心に真っ直ぐな思いを焼き付けてくる。それはこの厳寒のモンゴルですら敵わないほどの、燃えるような気持ち。
「まぁ、その……ちょっとは、な」
小声で思いを吐露すると、九郎は馬の手綱ごと彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「多分、俺は日々を過ごす事に精一杯で、自分の誕生日とか、そういうことは覚えられないと思う。だから望美。お前が俺に教えてくれ。この先も、ずっと」
傍にいてくれ、と願う言葉への応えは、望美からの口づけによって与えられた。
- END -