その肌を知るものは。

2010.04.22
秋の京。
やや捏造気味で、既にヒノエと望美が恋人同士、というお話です。
更にちょっぴり色艶をにおわす表現があります。苦手な方はご注意下さい。

- ヒノエ×望美


「景時、望美どこに居るか知らない?」
「望美ちゃん? それならねぇ……」
 ヒノエの問いに、腕いっぱいに洗濯物を抱えた景時が振り返るのと、不意に変わった風向きのせいで微かな気合いの掛け声が流れてきたのは、ほぼ同時だった。
「あっち?」
 ひょいと指を持ち上げて、庭の奥――九郎や望美が剣の稽古をよくしている方角を指し示すと、景時が首肯する。
「うん、そう。九郎と体術の稽古していたよ。暑いのに元気だよねぇ」
「全くだ。リズ先生も一緒なのかい?」
「リズ先生は情報収集に行くって、敦盛くんと出かけて行ったよ」
「そっちもまた、真面目な事だな」
 言葉はともかく、口調は暖かくやわらかい。そんな笑い声をあげたヒノエは、洗濯途中な景時へ礼を言い、その場を後にする。
「さて、どうするかな」
 暦の上では既に秋。それでも昼間の日差しはまだまだ強く、じっと立っているだけでも汗ばんでくるほどだ。そんな中、昼から稽古とは熱心すぎるとは思うが、特に用もない――いや、暇ならどこかへ出かけないかとの軽い誘い程度で、望美の邪魔をするのは多少気が引ける。
 どうせなら、稽古が終ったあとの気分転換として涼を取りに連れ出すか、もしくは体力回復の為の甘味にでも誘うか。
(どちらが神子姫様の希望に沿うかな?)
 緩く首を傾げて思索の淵に沈みかけたヒノエだが、不意にその緋色の視線が強い色を孕む。
「体、術……?」
 ぽつりと零されたのは、反芻の声。
 一瞬後、ヒノエは床板を蹴り、勢いよく走りだしていた。
「――ッ、このクソ暑い日に!」
 まるで吐き捨てるかのような彼の言葉を聞く者はいなかったけれど、喩え誰かがここに居たとしても、その怒りが何に向けられているのかは全く分からなかっただろう。
 目的の場所へ辿り着くと、僅かに息を乱しながら視線を巡らせ、稽古をしているであろう兄妹弟子を探す。普段ならばこの辺なのに、と声を頼りに周囲を見渡す。どうやらもう少し奥まった場所に居るようだ。やがて二人を見つけたヒノエは、敢えて気配や物音を消そうとはせず、土を踏み鳴らして歩み寄った。気の早い落ち葉が、足の下でがさがさと音を立てる。
「ヒノエ? どうした、何かあったのか」
 先に手を止めて声をかけてきたのは九郎だった。右手は望美の腕を掴み、反対の腕は相手の拳を遮るように宙に掲げられていた。
「ヒノエくん?」
 九郎の声で初めて存在に気付いたか、紫苑の髪を揺らして望美が振り返った。その瞳に浮かぶのは、溢れんばかりの笑顔。だが笑う事で集中力が途切れたか、不意に姿勢を崩して蹈鞴を踏んだ。そのまま足を滑らせかけたのを、九郎が抱き留める。
「ごめん、九郎さん。ありがとうございます」
 危うく顔面から地面に激突するところだった望美は、安堵の息を深々と吐いた。稽古中の怪我ならともかく、こんな事で傷を増やしていては呆れられてしまう。
 ちらりとヒノエを見遣れば、予想通りの仏頂面がそこにあって、望美は居た堪れないように目を逸らした。
 その顔の理由が、助けるためとはいえ他の男に己の恋人が抱き留められる形になったからだ――という事は、残念ながら恋愛経験値が低すぎる望美は気付かない。
 鈍感さで言えば九郎のほうもいい勝負で、生真面目な口調で望美を諭す。
「いや、構わん。だが最後まで気を抜くな。これが実戦だったら危なかったぞ」
「はぁい、気をつけます」
 一歩下がって頷いた望美は、改めて息を整える。どれほど身体を動かしていたのか。額には汗がぴっしりと浮き、柔らかな前髪が幾筋も束になって張り付いていた。
「うわぁ、止まると暑い……」
 邪魔くさげに手の甲で汗を拭い、髪を撥ね退ける。
「結わくと、涼しくていいかな?」
 両手で髪を持ち上げ、高い位置で結わえるような仕草をする望美へ、ヒノエと九郎は共に苦笑して首を振った。
「大して変わらないと思うけどねぇ」
「首筋だけは風が抜けて心地良いかもしれんが、その程度で暑さが変わるとは思えんな」
 俺だって暑い時は暑い、と九郎が呟く。
「そっか」
 手で押さえただけとはいえ、実際にやってみて納得したのかもしれない。頷きつつ手を離せば、ぱさりと紫苑の流れが宙に広がった。
 何気ない、本当に何気ない仕草なのに酷く艶めかしくヒノエの目に映ってしまうのは、汗で衣が張り付き、彼女の肢体の線をくっきり刻みだしているからに他ならない。
 普段ならば陣羽織に隠されて見えない筈だが、今日は暑さからか、もしくは京邸という安全な場所にいるからか、上衣は薄い単一枚だけ。その襟元も激しく運動をした所為か、微妙に肌蹴てしまっている。
(本当に、無防備過ぎるよ)
 普段は髪に覆われている項や、華奢な肩。首筋から鎖骨の小さな窪みへと、汗の珠が幾つも滑り落ちて行く。
 それだけでも十分に息を呑んでしまうのに、豊かな胸元と、細く引き締まった腰が描く線――ヒノエの手だけが知っていればいい筈の愛おしい形が、惜しげもなく晒されているのだ。望美の無邪気さ故と分かっていても、理不尽な苛立ちがこみあげてくる。
(とはいえ、九郎だからまだマシか)
 白龍の神子が女だという事を忘れているとしか思えない彼の言動を思い出すが、どれだけ誤魔化そうとしても、九郎が男であることに変わりはなく、独占欲から生まれる暗い感情がじわりとヒノエの心に生まれ出てくるのだ。
「ヒノエ……?」
 黙りこくったままのヒノエを不審に思ったか、探る様な響きで、九郎がヒノエの名を呼んだ。
「何か用事があったのではないのか?」
「あぁ、用事というか……」
 九郎の問いへ曖昧に頷いたヒノエは、望美の元へ歩み寄る。訝しげに見遣る二人の眼前で、肩に羽織っていた上着を脱ぐと、その頭上からばさりと掛けた。更に前を掻き合わせるようにし、小さな身体を包み込んでしまう。
「ひ、ヒノエくん?」
 目を白黒させる望美の手首を掴んで引き寄せながら、ヒノエは彼女の兄弟子へひたりと視線を向けた。
「九郎、鍛錬はもう終わりでいいだろ? こんな燦々と陽があたる場所で続けたら、神子姫様が熱で倒れちまう」
「あ、ああ」
 そうか日除けか、と小声で呟いた九郎は、天高く輝く太陽の位置を確かめた後、望美の顔へ目を戻す。リズヴァーンや九郎の厳しい訓練にも果敢についてくる望美だが、確かに顔を上気させ、呼吸も乱れていた。
 確かに暑さは疲労を冗長させる。とはいえ、赤面の半分くらいはヒノエの言動の所為だったりするのだが、そこに九郎は気付かない。
「そうだな。続きは明日、涼しい刻限にでもやるとしよう」
「はい。九郎さんありがとうございました」
 九郎への挨拶が終わるのを待ち、行こう――と促したヒノエは、望美の手を引いて歩き出す。そんな二人の背へ、九郎が慌てて声をかけた。
「今更だが、体調への配慮が足りなかった。兄弟子として不甲斐ないことだ。止めてくれたこと、感謝する」
「いや」
 律儀に頭を下げる九郎を肩越しに振り返り、ヒノエは首を左右に振った。
「こっちこそ邪魔してすまなかったね」
 謝罪と、そしてもう一つ。なにか複雑な感情の混じり合った声で応じ、ヒノエはひらりと片手を振ってみせた。



「ヒノエくん、ヒノエくんってば!」
 母屋へ向かって歩く――いや、歩かされながら、望美は半歩先を進む人の名を呼んだ。普段のヒノエは、己の歩く速さを他人に押し付けようとはしない。むしろ『姫君の時間を独占出来るいい機会だからね』と笑って、歩調を緩める事の方が多いくらいだ。それが早足に、ざくざくと地面を踏みしめて歩いていく。
 名を呼ぶのを繰り返す事三度目で、ようやくヒノエが反応を見せた。
「なんだい姫君」
「いつまでコレ、羽織ってればいいの?」
 確かに日差しを遮ってくれてはいても、元々身体が火照っているのだ。その熱が、白い上着の裡に溜まってしまう。しかもヒノエの進む速度は早く、きちんと手で押さえていないと落ちてしまう。強制的に押し付けられたとはいえ、借り物を落として汚すわけには行かないだろう。しっかり押さえれば抑えるほど、暑さが増すように感じてしまうのだ。
「もうちょっと」
「だって暑いよ」
「我慢して」
 すぱりと切り捨てるような口調で『お願い』するヒノエに、望美が稽古の疲労もあって、つい癇癪を起こす。
「もうっ、なに? なんでヒノエくん怒ってるの!?」
「そうだよ、怒っているよ」
「……え?」
 ここで『そんなことないよ』と、誤魔化し懐柔してくるのが普段のヒノエの常套手段。
 なのに、あまりにも素直に返された言葉に、思わず望美は呆然と足を止める。
「望美?」
 つられて立ち止まったヒノエは、首を傾げて少女の顔を覗き込む。そしてヒノエが目にしたのは、不安げに瞳を揺らしている望美の姿。
「ねぇヒノエくん。私、何かしたの?」
「なんで?」
「だって……」
 質問に質問で返され、咄嗟に言葉に詰まった望美に、ヒノエはひっそりと溜息を噛み殺した。
「ああ、ほら。唇なんか噛んだら傷が付くから」
 指で望美の口の端を辿り、駄目だよ、と促す。
 ヒノエは周囲を窺い、すぐ近くに大きく枝を伸ばした樹がある事を認めると、その根方まで彼女を連れて行った。邸でするような話ではないが、このまま炎天下で続けるべき内容でもない。大分葉は落ちつつあるが、まだ十分に豊かな陰を供する場所で足を止め、改めて上着ごと望美を抱き寄せた。
 望美が指摘したヒノエの怒り。それの源泉の大半は嫉妬である。
 オレのものだ、と伝えるように腕の中に囲い込めば、素直に身を任せてくる柔らかな身体の熱。優しい体温に、ふわりと情けない想いは解けて行くかのようだ。このまま暫くいれば、気分も落ち着くかなと思っていたところで、不意に望美が慌てたように声をあげた。
「や、そのっ、稽古してたから汗臭いし」
 離れて、と肩に手をついて突っ張ろうとする。
「なんで? いい匂いしかしないよ」
 望美の抵抗を物ともせず、ヒノエは彼女の頭を覆っていた上着をずらし、髪へ頬を摺り寄せる。確かに湿り気を帯びた感触が伝わるが、それが何だというのだ。
 行軍時や旅の途中など、何日も湯を使えない日がある。衣を変えることだって難しい。特に夏の旅路などは酷いものだ。そんな時に比べれば全く何も感じない――との言葉は胸中にだけ収め、代わりに己の鼻腔をくすぐる芳しい香についてだけ言及する。
「あぁ以前に贈ったえび香、使ってくれているようだね」
「うん。すごくいい匂いで気に入ってるから――って、違う、違う。それは今はどうでもいいの!」
「どうでもいいとは酷いなぁ。それに汗とかそんなのは今更だろ? もっとたっぷり汗かくような事だってしたことあるじゃん」
 二人きりでさ、と耳元で甘く声を潜めれば、望美の動きがぴたりと静止する。更に一言二言、ヒノエが閨を示唆するような言葉を告げると頬が見る見る内に赤く染まり、悲鳴混じりの声が紡ぎ出された。
「ヒノエくんっ!」
「ま、その話はまたゆっくりと今夜するとして」
 望美の怒りはさらりと聞き流し、ヒノエは改まった表情で言葉を続ける。
「自分がどんな格好で鍛錬していたのかは、少々自覚してくれてもいいんじゃないかな?」
「どんな、格好……?」
 訝しげな反問へ頷いたヒノエは、彼女を包んでいた上着をするりと引き抜き背後にある木の枝へと引っ掛ける。
 その動きで生まれた風が、ふわりと望美の汗ばんだ身体を撫でた。涼しさよりも冷たさを一瞬感じた事で、どれだけ自分の身体が汗で湿っているのかを自覚する。
 一方ヒノエは、顕わになった身体の線を指先でなぞりつつ、首を傾けて望美の耳元へ唇を寄せた。
「お前の美しさが、まるで衣通姫の如く、衣で隠しても隠し切れないのは分かっているけれど、本当に見せてやる必要なんかないんだぜ?」
「衣?」
 数度瞬いた望美は、どこかぽかんとした表情でヒノエの言葉を考え込んでいたが、彼の指先が悪戯に首筋を辿り始めた所で、はっと彼が示す意味に気付く。
「ちょ、ちょっと待って……!」
 ヒノエの胸に手をついて、彼我の距離を無理やり生み出すと、ちらりと視線を下に落とす。じっとりと汗に濡れた肌、そこに張り付いて胸元の曲線を顕わにしている布。着付けがあまり上手くない事を自覚している襟は大きく開いて谷間を晒している。
 ようやく彼の怒りを察した望美は、声にならない悲鳴をあげた。その様に、ヒノエは満足げというよりは、寧ろやっと理解してくれたか、と言わんばかりに深々と息を吐いた。
「分かった?」
「わ、分かりました……」
 ちょっと反省した、と呟いた望美の頬へ、ヒノエは手を添え、己の方へ向き直らせる。その動きはまるで口づける時の様に滑らかで遅滞ないものだが、ヒノエ自身の表情は、そういった色っぽい仕草とは程遠い。
「ねぇ、待ってよ、姫君。ちょっとだけなのかい?」
 確認するヒノエの声がどこか絶望めいた響きをはらんでいるのも仕方ないだろう。ここまで諭して『ちょっと』で終わらされたら堪らない。
 今日は気付けた。だが次は?
 望美にきっちり自覚させて自衛して貰わなければ、ヒノエの心労が増すばかりだ。
「だって、こればかりは私の努力だけでは無駄だし」
「いや、そこは努力で改善できる問題だから」
 呆れたように首を振り、ヒノエは望美と額を合わせた。ほんの少し身を屈め、上目遣いに翡翠の瞳を覗き込む。
「他の奴らになんか見せるなよ。お前の柔肌を独占したいオレの為に、どうか頑張ってみてくれないかい?」
 色香が滴るような声音でねだれば、視線を逸らせずにいる望美は、覿面に頬を紅色に染めて行く。
 駄目押しに「ね?」と甘く囁いて返答を促せば、恥じらいを含んだしどろもどろの声が返される。
「そ、そりゃあね、他の人に見られるのは恥ずかしいとは思うよ。思うけど……でも稽古している時って、そっちに夢中で他の事までなかなか気が回らないよ」
「ふぅん」
 望美の訴えに小さく鼻を鳴らしたヒノエは、どうしたもんかな、と呟いた。
 無意識の所作で、少女の頬や目尻に触れるだけの口づけを与えつつ考え込んでいたヒノエは、やがて何かを思いついたらしい。
「それじゃあ、こうすればどうかな」
 楽しげに、きらきらと紅玉の如き瞳を煌めかせながら、ヒノエは人差し指を立てて、一つの提言をする。
「見られたら恥ずかしい、って今以上に思えるようになればさ、自然と気をつけるようになるんじゃないかな」
「え? それは有り得るかも知れないけど」
 躊躇いがちに望美は頷く。
「それじゃ試してみよう」
 ぱちりと閉じられた片目に、望美は何故か嫌な予感を覚えて身震いする。
「おっと、逃がさないよ」
 なんとなく半歩後退した望美だったが、その逃亡は肩と腰に回されたヒノエの腕でがっちりと妨げられる。的確に押さえつけてくる動きに、望美は身を捻って抗うが、その事で元々崩れかけていた着物が更に崩れ、白い胸元が大きく開く。
「暴れると脱げるよ? それはそれで、オレは良い眺めで楽しいからいいけれど」
「私は楽しくない!」
 喉の奥で唸り、望美はどうにかして離れられないか、と考え込む。しかし隙が無いのだ、この敵は。
 なにしろヒノエは海の男。細く見える腕も良質な筋肉でしっかりと覆われていて、船で鍛えた腕力は伊達ではないと知らしめる。
 結局、逃亡は無理だと悟った望美は、恐る恐るヒノエへ拘束の理由を問いかける。
「あの、ヒノエくん、一体何を……」
「だから、さ」
 挙動不審に視線を彷徨わせる望美へ嫣然と微笑んでみせたヒノエは、その大きく肌蹴たままの首筋へ顔を寄せた。
「え、ちょっ、何す――ッ痛!」
 肌を吸われるちりっとした痛みに、望美はきつく眉を寄せた。一つ、二つ……と刻まれていく所有の証に、ヒノエとの交情に慣れた身体は、じわりと甘い感触を点し始めるが、これがただの睦言でないのは分かっている。
「ヒノエくん、こんな場所で恥ずかしい事しな――…」
 訴える言葉が、ぱたりと途中で途切れる。
『見られたら恥ずかしい、って思えば』
 言葉が途切れた瞬間に脳裏に甦ったのは、つい先刻ヒノエが宣言した言葉。
(確かに恥ずかしいよ! 恥ずかしいけど!)
 いくらなんでも、服で隠れない場所にまで付けるのは反則だと、唇が這い回る感触に背筋を震わせながら、必死になって彼の髪を掴んだ。
「ちょっと、やだ、そんなに痕残したら困るってば!」
「困りなよ」
 鎖骨に前歯を立て、ヒノエは嘯く。
「お前はオレのモノだって、いつでも大声で叫びたいくらいなんだから、これ位の主張は勘弁して欲しいね」
 ようやく顔を上げたヒノエは、最後の仕上げとばかりに望美の唇へ口づける。
「……ヒノエくんって、そんなに嫉妬深かったっけ?」
 濡れた音を立てて離れたヒノエの口の端に、微かな銀の雫が残っているのを見てしまい、望美は恥ずかしげに視線を落とす。さりげなく一歩後ろに下がった動きは、今度は妨げられなかった。
「ははっ、嫉妬なんかいつだってしてるよ?」
 明るい声で誤魔化す言葉は紛うこと無きヒノエの本音。
 自分でも気になったのか、親指で口元を拭いつつヒノエは笑う。
 望美を取り囲む八葉は、生まれも育ちも悉く異なる癖に必ずと言っていいほど何かしらに秀で、その才を世に示している。能力だけではない。外見だってそうだ。また全員ではないが、半分近い人物が、世間に知られた役目や地位に就いている。その中でも熊野別当という名は、また格別なものだろう。
 そんな肩書きや金銀財宝で誤魔化されてくれる女だったら、どれほど楽だったか。
 老若男女関係なく大概の相手は、ヒノエを藤原湛増として見る時、その背後に豊かな熊野の恵みを幻視する。交誼を結ぶ事でもたらされる財や縁。そういった目先の欲に惑わされないのが、望美だった。
 何故ならそれらは、あくまでこの世界での尺度。異世界から来た少女に、しがらみは無縁。だからこそ、彼女が寄せる好意は純粋で美しい。
 彼女が無条件で向ける屈託の無い笑顔は、いつだってまずは幼馴染の有川兄弟に注がれていた。そこに朔が入り、白龍が加わり――ただひたすらに、心を添わせる相手へと向けられる優しい笑顔が羨ましかったなんて、口が裂けても言えやしない。
「もし、オレに余裕があるように見えているとしたら、それはお前の買い被りって奴さ。正直、政なんかだったら、こんなに迷ったり戸惑ったりする事はないよ」
 僅かに言葉を切り、望美の頬に指を添える。
「お前の事だからだよ、望美。月から舞い降りたオレの天女は、考える事も為す事も、その辺の姫君とは大きく違いすぎていて、どうしたらお前に喜んでもらえるのかな、何をしたら愛しい笑顔を引き出す事が出来るんだろうって、いつだって試行錯誤して迷っているんだ」
 そう苦笑を浮かべれば、望美はくるりと瞳を瞬かせ、大きく口を開けて笑った。
「やだなぁ、そんなの簡単だよ」
 真っ直ぐに立てられた人差し指が、楽しげな所作でヒノエの眼前に置かれる。
「好きって言って、抱き締めて」
「……それだけ?」
 どちらかと言えば、親しい触れ合いを恥ずかしがる望美からの、珍しいとも言える抱擁を願う言葉に、ヒノエは戸惑いの表情を隠さない。
「そっ。それだけ」
 甘えるように両腕を伸ばしてきた望美を受け止めたヒノエは、まずは衝動のまま、細い肢体と触れ合う感触を存分に味わう。だけどつい一言、恨みがましい言葉が出てしまう。
「そんなの、いつも言っているだろ?」
「ヒノエくんが自主的に言ってくれるのと、私が言ってってねだるのは違うよ。ヒノエくんの心をちょうだい、ってお願いしているようなものじゃない」
「そうかい? 言うだけならタダだけど?」
「ヒノエくんはそんな事しないよ」
 望美は悪戯っぽく笑う。
「私も、そんな意地悪な恋人を持った覚えはありません」
「……参ったね」
 降参だ、と告げて望美の目尻に唇を落とす。
「負けたよ、姫君。尤も、先に惚れた方が負けっていう先人の言葉がある通りに最初から――オレはお前に勝てないのだけれどね」
 誰も触れたことの無い肌を知り、乙女を手に入れたつもりでいたけれど、本当はオレこそが奪われていたのかな、とヒノエはほんの少しだけ口惜しさを噛み締める。
(でも、それも悪くない)
 手に入れる喜びと、それと同じ強さで訪れる、手に入れられた悦び。一方的な思いではないと分かるからこそ、温かな何かが胸の奥で密やかに結実するのだ。
 鼻先で望美の髪を掻き分け、形よい耳を探り出す。
「好きだよ、望美。お前が許す限り、何度だって抱き締めて囁くし、声が嗄れたら口づけで伝えるから」
 ――だから、オレの傍から離れて行かないで。
 耳朶を噛みながらの願いに、望美はくすぐったげに肩を竦めた後、満面の笑みで頷いた。


- END -

初出:2010.04.11 熊野大火祭・弐発行コピー誌
改定:2010.04.22

 

||| あとがき |||

熊野大火祭・弐にて発行したコピー誌より再掲しています。
基本的に殆ど差は無いのですが、4~5行くらい増えている…かも。


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