世界は光に満ちて

2010.04.01
頭領生誕記念・迷宮EDの1年後、現代鎌倉

- ヒノエ×望美


 卒業式と最後のホームルームを終えた望美たち三年生は、後輩たちの待ち受ける前庭をそぞろ歩いていた。
 仲間で写真を撮る者、部の後輩だろうか、在校生たちに囲まれてもみくしゃにされる者もいれば、頬を別れの涙で濡らす者もいる。それぞれの決別の風景が、校舎から正門までの間に生まれ出ていた。
 そんな無数の輪の中を、望美は軽やかな足取りで歩いていた。時折かけられる声に手を振り、笑顔を向けつつもその歩みは止まらない。
「春日先輩!」
「あっ、譲くん!」
 風に煽られる髪を片手で押さえつけながら、望美は弾んだ声をあげ、初めて足を止めた。
 小走りに近づいてきた譲は、彼女の正面で立ち止まると、穏やかに目を細めた。
「間に合ってよかった」
 部の先輩に挨拶していて出遅れるかと思いました、と胸を撫で下ろした彼は、改めて頭を下げる。
「先輩、卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
 真っ直ぐに彼を見上げ、笑顔を浮かべる少女を見遣り、譲の頬にも笑みが浮かぶ。
「おいおい、譲。俺に『おめでとう』は?」
「ああ、兄さんもいたのか」
 ぱちりと瞬き、遅れて近づいてきた将臣へ視線を向けた譲は、それでも兄へ祝辞を告げる。
「兄さんも卒業おめでとう。……まさか無事に卒業出来るとはびっくりだよ」
「うんうん、しかも大学も決まってるしね。驚きだよ」
「なんだよお前ら、二人して酷い言い草だな」
 髪をがしがしと掻き毟りながら、将臣は大袈裟に嘆いてみせる。
「俺はやれば出来る男なの!」
 卒業証書の入った筒を手に胸を張って見せた将臣へ、譲は軽く肩を竦めてみせた。
「はいはい、そういう事にしておくよ」
 適当な相槌をしつつ、譲は望美に問いかける。
「それで先輩、もう家に帰られるんですか?」
 言外に謝恩会などはいいのか、と問う言葉に、望美は苦笑気味に頷いた。
「うん。出ると遅くなっちゃうし、それに――」
「それに、オレが待ってるしな」
 にゅっと背後から伸びてきた腕が、望美の頬を掠め、そのまま首筋に絡みつく。
 ふわりと漂う潮の香りを嗅ぐまでも無く、その腕の人物が誰かなんて、望美には自明の事。
「ヒノエくん!」
 抱きしめる腕の中で振り向けば、視線の先には真紅の髪を揺らして笑うヒノエの姿があった。
「ごきげんよう、姫君」
「よっ、ヒノエ。ご苦労さん」
「お前……敷地内に勝手に入ってくるなよ」
 二者それぞれの挨拶に片手を挙げて応じたヒノエは、驚いたように目を見開く望美へ向けて、にっこりと微笑んで見せた。 
「お前の晴れの日だからね。我慢出来なくて迎えに来たよ」
「何時に終わるか分からないから、家で待っててって言ったのに」
 随分待ったのではないかと視線で訴える望美だが、ヒノエはからりと笑って首を横に振る。
「ちゃんと待ってたよ。な、将臣」
「おう、俺がヤマ勘で時間予想をして、ヒノエにメールしてやったからな」
「そういうこと。だから本当に今着いたばかりなんだよ」
 完璧な計算だったな、と白い歯を出して笑う将臣を見遣り、望美は呆然と口を開く。
「おいおい、アホ面晒してんなよ」
 将臣は視線を望美の背後にいるヒノエへ移す。
「お前、本当にこんなのでいいのか?」
「愚問だね」
 将臣の呆れ声を鼻先で笑い、ヒノエは更に深く少女の身体を胸元へ引き寄せる。そのまま唇まで寄せかねない動きに、常識人を自認する譲が仲裁に入った。
「ヒノエ、いい加減にしろよ。それから、先輩も」
「えっ、私!?」
 譲に名指しされ、はっと望美は我に返って自分を指差す。
「まだここは校内なんですから、ヒノエを甘やかし過ぎないで下さい。放っておけばどんどんつけあがるに決まっているんですから」
「あっ、はい。ごめんなさい」
 反射的に謝りつつ、そういえば校内なんだよねぇ、と望美はヒノエの腕を引き剥がしにかかった。
「えっ、なんだよ姫君。逃げなくてもいいじゃん」
「逃げるんじゃなくて」
 望美の体術はリズヴァーンおよび九郎仕込みである。よいしょ、と呟きつつあっさり拘束を逃れた望美は、掴んだままだったヒノエの手を握りなおし、くるりと振り返った。その動きに、ヒノエが僅かに目を見開く。
「久しぶりなんだから、ちゃんと顔見せて欲しいんだ。お仕事忙しいのに、来てくれてありがとうね」
 前回ヒノエが現代鎌倉を訪れたのは二週間ほど前だった。十日あまり航海に出るから暫く来られないと告げたヒノエが目にしたのは、素直に頷きつつも僅かに瞳を曇らせた望美の姿。その憂い顔の理由を聞きだすのに、正にヒノエはあらゆる手段を使い、最終的にはベッドに押し倒す辺りまでやってのけた訳だが、結果として望美のねだり事を聞きだす事には成功した。
 そんな過程と思い出はさらりと笑い飛ばし、ヒノエは望美の声に応じる。
「姫君のためなら、なんてことないさ。何しろお前は殆ど我侭を言わないから、こういう時位しか、男の甲斐性を見せるチャンスがない」
 迷宮の謎を解くために、鎌倉で過ごした日々に習い覚えた英単語をさり気なく使いつつ、ヒノエは片目を瞑った。
「ううん。卒業式の後に会いに来て欲しいなんて、ヒノエくんのお仕事を思えばすごくワガママ言ったと思うし、他にも……現在進行形で言ってたよね」
 ふるりと首を左右に振り、望美はヒノエの手を捉える指の力を強くする。その動きに、望美が何かを告げようと――恐らくは何か大きく運命を変えるものを口にしようとしているのだと悟る。
「望――…」
 名を呼ぼうとしたヒノエの声は、望美が決然と上げた視線で遮られる。
 陽光を眩しく反射する翡翠色の瞳が、将臣、譲、そしてヒノエと順に一撫でした。ほんの一分前と周囲の喧騒は何一つ変わっていなのに、彼ら四人が佇む一角だけが、まるで切り取られた空間のように静寂に満たされる。
 一瞬だけ目を伏せた後、望美は晴れやかな笑顔で口を開いた。
「ヒノエくん、ずっと待たせてごめんね。私、熊野に行くよ」
 将臣が鋭く口笛を吹き、譲が思わず息を飲む。そんな中、ヒノエはたっぷり数秒間、無言のままに望美を見つめた。あまりにも反応がないので望美が『どうしよう、熊野に行く、だけじゃ伝わらなかっただろうか』と焦り始めた頃、ようやくヒノエの腕が動いた。
 彼にしては珍しいほど性急で乱暴な動きで望美を引き寄せ、先刻とは比にならないほどの力で抱きすくめる。まるで骨が軋むのではないかというほどの力で抱きしめられ、あぁやっぱり彼は水軍の長なんだな、と暢気に考えかけ――流石に呼吸が苦しくなり、望美はヒノエの背を拳で叩く。
「ちょ、ヒノエくん、も少し手加減……ッ」
「我慢して」
 望美の肩に顔を押し付けたままで告げられた声は低く掠れていて、その滅多に聞かない響きに、くらりと酩酊するような思いを噛み締める。
(この声、知ってる)
 強い感情を必死に堪えるような声音は、ヒノエに重なるように運命を辿ってきた望美ですら、片手の数で事足りるほどしか聞いた事がない。
 例えば屋島で。
 例えば迷宮の中で。
 そして、今。
「本当に……いいのかい?」
 僅かな震えを孕む声が問いかける。
「本当にも何も、ヒノエくんが言ったんじゃない。卒業したら熊野に連れて行くって」
「いや、それは確かにそうなんだけど」
 ようやく腕の力を緩め、顔を上げたヒノエは吐息混じりに囁いた。
「アレはオレの宣言なだけであって、本当に選ぶのは、お前だからさ」
「うん。だから選んだよ。――ヒノエくんの隣で生きる事をね」
 薄く頬を紅色に染めつつ応じる声に、ヒノエは衝動のままに唇を重ね合わせようとして……譲に頭を殴られた。
「だーかーらー、ここは校内だって言っただろ! 場所をわきまえろ、馬鹿ヒノエ!」
「なにすんだよ譲! めちゃくちゃ感動的な場面だぞ、ここっ!」
「あ~、なんつーか、感動的だからこそ、こんな場所じゃない方がいいんじゃねぇの?」
 ほらよ、と将臣が投げやりに親指で示す先には、遠巻きに様子を眺めるクラスメイトたち。ざわめきの人垣の向こうには、スーツ姿の教師の影も見える。
「に、逃げよう、ヒノエくん!」
 かぁっと首筋まで真っ赤にした望美は、ヒノエの手を取って走り始める。
「別にオレは――」
「私が構うの!」
 やだー、恥ずかしいー、と口にしつつ逃走を開始する望美に付き合って走りだしながら、ヒノエは苦笑を噛み殺す。
「ま、確かにこんな五月蝿い場所でする話じゃないな」
「え? なにか言った?」
 紫苑の髪を揺らし望美が振り返るのに、にこりと笑い返す。
「なんでもないよ」
 そして望美の手を握りなおすと、ぐっと足に力を込め、望美の隣へ並ぶ。
「求婚の続きは後で改めて、と思っただけさ」
「きゅ……っ」
「プロポーズって言った方がよかったかい?」
 息も乱さずに駆けながら、ヒノエは望美の手を持ち上げると、薬指の付け根に口づけを落とす。
 まるで誓いを告げるような仕草だったが、突然のキスに望美は思わず悲鳴をあげてしまい、ヒノエをちょぴり不機嫌にさせる事になるのだが――それはまた、別の話。


 ヒノエ曰くところの『こういう事には雰囲気が大事だから』という仕切り直しの求婚を経て、望美が熊野に旅立つ日が決まった。
 望美本人としては、別に明日すぐ行ってもいいんだけど、くらいの心積もりではいたのだけれど、実際に両親に報告したりと色々してみたら、予想外な事に泣けてしまった。彼女の両親も、遙か時空の彼方へと去る娘ともう少し共に過ごしたい、と願い、互いに心の整理がつくまで暫くの猶予が置かれる事になった。
「んじゃ区切りよく、四月一日でいいんじゃねーの?」
 そんな適当な将臣の提案に頷いたのは、別に区切りでもなんでもなく、その日がヒノエの誕生日だったからだ。一生忘れない日になるのなら、特別な日に旅立ちたい。そう言って一日の旅立ちを希望した望美へ、ヒノエは人目を憚らず頬に口づける。
「去年も望美には誕生日を祝って貰ったけれど、今年はサイコーに嬉しい贈り物だね」
 有川兄弟の眼前でのスキンシップに、望美は赤を通り越して蒼白なまでに表情を変えたが、あまりにもヒノエが幸せそうで、愛しげに目を細めて自分を見つめ返すものだから、結局何も言えなくなってしまった。
 そうやって定められた日に至るまで、ヒノエは一日置きくらいのペースで現代へとやってきて、望美と、時には将臣や譲を加えて鎌倉を遊び歩いた。思い出作りだよ、と屈託無く応じたヒノエは、将臣から借りたデジカメで沢山の写真を撮っていた。
 何に使うのかと問えば、その写真は全て望美の両親に渡すのだと言う。
「オレたちが幸せにやってるっていうのを、お前のご両親に見せてやる事が出来ないからね。だから今だけでも、オレがちゃんとお前を笑顔にする事が出来ているよって、証明しておこうかと」
 そんな風に笑うヒノエへ街中にも関わらず抱きついてしまい、後から思い切り赤面する。勿論その顔も、シャッターチャンスとばかりに収められてしまったのだけれど、そのデータを消そうだなんて思わなかった。
 泣いたり笑ったり怒ったり、一番大きな感情の振幅は、ヒノエと共にある。不細工に顰めた顔も、弾けるような笑顔も、全部彼によって引き出されるものなのだ。
 最終的に数百枚にまで及んだ写真は、有川兄弟が『結婚祝い』といってくれたデジタルフォトフレームに収められ、春日家に飾られる事になった。
 旅立ちの日、リビングの一番明るい場所に置かれたフォトフレームを見つめた後、望美は「そろそろ行くね」と両親に声をかけた。母親と、そして平日だが休みを取ってくれた父親の温かな視線を感じながら、靴を履く。
「それじゃ、行って来るね」
 玄関の扉に手をかけつつ、二人を振り返る。笑顔で見送る二人に一つ頷き扉を開けば、そこには既にヒノエが待っていた。初めて出会ったときよりも、少し背の伸びた姿。絡み合う視線の位置が高い事に今更ながら気付く。
 出会って一年。
 時空を隔てて恋を育んで更に一年。
 それが長かったのか、短かったのか、望美には分からない。だけど手放せない運命の人であることだけが、たった一つの真実。
「おはよう。迎えに来たよ、望美」
「うん、ありがとう」
 差し伸べられた手に己の手を重ね、望美は笑う。白い指先を握り締めつつ、ヒノエは扉の内側へと顔を向けた。口元を引き締め、注がれる二対の視線へ深々と頭を下げる。
 娘さんを頂いていきます、だとか。
 彼女の事は必ず幸せにします、だとか。
 そんな陳腐な言葉が怒涛の様にヒノエの脳裏を巡るが、結局は何一ついい言葉が思いつかなかった。
 ただ黙って頭を下げ感謝の念を示す。それだけしか出来なかったのだ。
 長い長いお辞儀の後、姿勢を戻したヒノエは望美に柔らかく笑いかける。
「じゃあ、行こうか」
 二人並んで、ゆっくりと歩き始める。その頭上に、はらはらと白い花吹雪が舞う。風もないのに、と瞬いた望美が見つけたのは、少し先で佇む二人の幼馴染。将臣はスーツを、譲は制服を纏い、それぞれに正装といえる姿をしていた。
「見送りに来たぜ」
 大きな手に掴んだ花弁を豪快に宙に舞わせながら将臣が笑う。その向かいでは、将臣よりは控えめな手付きだが、それでも華やかに、譲が白い花を空へ飛ばす。
「……なにこれ、桜?」
 繋いでいない方の手を上げ、舞い散る花弁を受け止めて望美が呟く。
「お前に一番似合うんじゃないかってヒノエが言い張るからな。ま、シーズンだし集めやすかったのもあるけど」
 全ての花弁を撒きおわったか、両手を払いながら将臣が答えた。
「ありがとう。二人にも見送ってもらえて嬉しい」
 僅かに目尻に涙を滲ませながら、望美は有川兄弟に感謝の念を告げる。
「何言ってるんですか。僕らが先輩の門出を見送らないわけないでしょう?」
「そういうこと」
 譲に相槌をうった将臣は、僅かに表情を改める。
「望美、元気でな。ヒノエが浮気したら、いつでも戻って来いよ」
「将臣くんったら」
 くすくす笑う望美の語尾に、ヒノエの不機嫌そうな声が重なる。
「そんなことするわけないだろ」
「当たり前だ」
 即答した将臣の鋭い視線がヒノエの瞳と絡み合う。
「きっちりコイツのこと守れよな」
「言われるまでも無く」
 ヒノエの声が真摯な色合いを帯びる。
「熊野別当藤原湛増の妻は、夫と仲睦まじく、末永く健やかに暮らしました、と――そんな伝承が残るほど、誰の目にも明らかな位幸せにしてみせるから」
「ははっ、随分大きく出たけど、それでこそヒノエだよな。期待してるぜ」
 ぽん、と将臣はヒノエの肩を叩いた。その力が思った以上に強かったのか、僅かにヒノエが眉を顰める。馬鹿力め、と呟いたような気もしたが、既に意識はもう一人の幼馴染である譲へと向いていた。
 ヒノエと将臣の会話の間に、譲はなにがしかを望美に差し出していた。
「先輩、これはオレからの餞別です」
 それは極小さな、手のひらサイズのノートだった。それを素直に受け取りつつ、望美は首を傾げる。
「これは?」
「先輩が美味しいって言ってくれた料理の作り方メモです」
 譲の言葉に、望美は目を輝かせてノートを開く。
「季節を問わず、簡単に作れそうなものしか書いていないので、あまり量はないんですけど」
「ううん! 十分だよ、嬉しい」
 華やいだ声をあげる望美の手元を覗き込んだヒノエは、懇切丁寧を越えて一挙一動まで事細かに記されているメモに苦笑を噛み殺す。それほど料理が得手とはいえない望美の為に、必死で作ったのだろう。
 上着のポケットに大事にノートをしまった後、望美はもう一度二人へ向かってありがとう、と笑った。
 幸せだ、とてらいもなく告げる声に、そんな望美を優しい表情で見守るヒノエの姿に、有川兄弟は全てがあるべき場所におさまったとでも言うような安堵を感じるのだった。
 もう一言二言言葉を交わし、ヒノエと望美は歩き始める。将臣たちの横を抜けながら、思い出したようにヒノエが自分の服のポケットを探る。そして取り出したのは陽光をきらりと弾く銀色の指輪。驚きに目を瞠る望美の指へ素早くそれをはめると、満足げに笑う。
「お前の世界では、こうやって永遠を誓うんだろ?」
 そんなヒノエの言葉と共に二人の足が門扉を越えたその時。

 りぃん、と涼やかな音が空間を支配した。

 網膜を灼く白い光があたりを埋め尽くし――有川兄弟が視界を取り戻した時には、既に二人の姿は無かった。




 


「ねー、ヒノエくん。こんなのいつの間に用意したの?」
 懐かしい熊野の大地を踏みしめつつ、望美は隣を歩く人へ視線を向けた。銀の光が縫いとめられた左手を眼前に翳し、眩しげに目を細める。
「ふふっ、それは男の秘密って奴さ」
 真円ではなく、ほんの僅かな歪みが見える事に望美は気付いてた。きっとこれは現代鎌倉で買ったものではなく、この世界で――熊野において作られたものなのだろう。
 恐らくは、望美が何一つ迷うことなく、この装飾品を身につけていられるようにとの配慮。
 望美の訴えるような視線に気付き、ヒノエはぎゅっと繋いだ手を握り返した。
「上手く言えないんだけどさ」
 ヒノエにしては珍しい前置きをしてから語り始める。
「望美の世界って、基本的に一夫一妻なんだろう?」
「え? うん、そうだね」
「だからお前の世界の流儀に倣う事で、オレは望美以外の妻は娶らないと――そう宣言したつもりでいるんだ」
 真っ直ぐに前を見据えるヒノエの顔は、やはりこれまた珍しい事にほんの僅か赤味を増していて、つられるように望美も頬に熱が集まるのを感じる。
「だから姫君も、その心づもりでいてくれ。熊野別当藤原湛増の妻はお前一人。側室も妾も一切必要ない。オレの心と命は全て、お前に捧げたのだから」
 他の奴が入る隙間なんてない、と。
 炎を自在に操ってみせた八葉の時を思わせる、酷く熱い想いを孕む言葉に、望美は泣きたくなるような気分を必死で耐える。感情の揺れが収まるのを待つように、ヒノエは緩やかに足を止め、空いている方の手で望美の髪を梳く。
 時折肌に触れる指先の優しい感触に、望美はうっとりと目を細め、その心地よさに酔いながら口を開いた。
「私は貴族のお姫様のようにおしとやかでもないし、生活の知恵だってあやふやだし、ましてや家事が得意な訳でもなくて、こんなので本当にヒノエくん……ううん、熊野別当の奥さんが務まるのかなって、ずっと不安だった。だから受験勉強の代わりに、一生懸命この時代の勉強をして来たよ。まだまだ力不足だとは思うけど、必ず、ヒノエくんに相応しい女だって周囲に認めさせてみせるから。だから、それまで支えてくれる?」
 ねだる言葉に、ヒノエは反射的に頷きかけるが、途中で口元に大きな笑みが浮かぶ。
「望美、お前は本当にすごい女だね」
「へ? えっ、いきなり何っ!」
 不意にヒノエが笑み崩れたかと思った瞬間、勢いよく抱きしめられ、望美は軽くパニックを起こす。
「愛してるってことだよ」
「それ脈絡ないから!」
「そんなことないさ」
 目を白黒させている顔を覗き込み、そのまま一息に距離を詰め、唇を重ね合わせる。十分に口内を味わってから、ちゅっと可愛らしい音を立てて顔を離す。
「正直な話をすればだよ、姫君」
「うん?」
「今、白龍の神子は熊野で伝説的な存在でさぁ」
 ヒノエの言葉に、望美がぽかんと口を開ける。
「で、で、伝説――ッ!?」
 なにそれーと叫ぶ少女の姿に、ヒノエは声を立てて笑った。
「ほら、なんといっても源平の和平を成し遂げちゃった訳だしね」
 そういえば、と望美は思い起こす。
 迷宮騒ぎとその後に続いた平和な日々ですっかり忘れていたが、和平の会談の席で茶吉尼天と戦った後、そのまま鎌倉へ移動する事になったのだった。己の生まれ育った世界で茶吉尼天との決着をつけた後、望美はそのまま京へ戻らず自分の世界へ残ったため、この世界が――京や熊野がどんな状況になっているのか知る由も無かったわけだが――。
「講和を引き出したのは白龍の神子の尽力、って誰もが知っているぜ。そんな平和の立役者である神子姫が、熊野別当の妻として相応しくないだなんて、そんな馬鹿な話はない。むしろ武勇だけではなく、政にも造詣の深い素晴らしい神子だ……なぁんて大歓迎されるんじゃないかな」
 小首を傾げて告げる姿に、ふと望美の野生の勘が反応する。
「ヒノエくん」
「なんだい、姫君」
「その噂話って、もしかしてヒノ――」
「おおっと」
 ヒノエはにやりと笑い、指先で望美の口を塞ぐ。ぱちんと片目を瞑る仕草は、嫌味なまでに様になっている。
「野暮な詮索は言いっこなしだよ」
 この言い様からして、望美が想像した事は間違っていないらしいと確信する。抑えられた手の下で、もごもごと文句をつけるが、ヒノエは涼しい顔で「くすぐったいよ、姫君」などと笑っている。その余裕っぷりが小憎らしくて暫く反抗を試みるが、結局は徒労に終わり、深く溜息をつく。
「もー……ヒノエくん、色々画策しすぎ」
「愛しいお前を手に入れるためなら、なんだってしてみせるぜ」
 望美が熊野に来た時の地位を確立させるため、そして同時に、ヒノエ自身に持ちこまれる縁談を蹴散らすために『白龍の神子』の名前を最大限に利用していた男は、彼女の文句こそ最大の賛辞だと言わんばかりに涼しげに笑った。

- END -

 

||| あとがき |||

4/1はアンケートリクエスト外として創作した、九郎→弁慶と続いた流れでの「誕生日にプロポーズ」話です。前2つも現代話だったので、これも迷宮ED後となっています。

あれ、プロポーズシーンないね? ないね…? むしろ望美が求婚してないか、みたいな。そんな微妙ラインな話ですが、愛だけはたっぷり込めました。入れすぎて8000字overとか暴挙をかましましたが(…)まぁそんなもんですよね、ええ。


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