幾つもの名
2010.02.26
ED後の別当夫妻のお話。
- ヒノエ×望美
その人は、幾つもの名を持っている。
「そうだ。あのね、ヒノエくん」
「なんだい、望美」
熊野別当家の奥向き。夫婦で囲む夕餉の席で不意に望美は夫の名を呼んだ。優しく目を細めながら彼女を見遣るヒノエに、望美は真剣な表情で問いかける。
「私も『湛増さま』とか呼んだほうがいいのかな?」
「……は?」
望美の思考が、かなりの確率でヒノエの予想の遙か上空を飛んでいくのはいつもの事だが、今回はまた酷い。大分慣れたつもりであったが、何故そんな事を、どうして言い出す羽目になったのか全く想像がつかない。
(っていうか、今更過ぎないかい、姫君)
名実ともに夫婦となって半年近くが過ぎたこんな時期に出てくる言葉ではないように感じるのは、きっとヒノエだけではあるまい。
それでも内心の動揺は綺麗に押し隠し、微笑みながら「どうしてだい?」と問い返す。
「だってヒノエくんって、熊野別当だよね」
「ああ、そうだね」
「そのお仕事は、藤原湛増のお名前でしているんだよね? だったら別当の奥さんである私も、ちゃんとそっちの名前を使うべきなのかな」
緩く首を傾げながらの言葉に、ヒノエは彼女の質問の意図をようやく理解して苦笑する。
八葉として共にいた時間、己が別当である事を詳らかにした後も仲間にはずっとヒノエと呼ばせていた。それは身の安全を図るためではなく、熊野別当が長く本宮を不在にしているということを隠したかったからである。その事は軍略にも大きく関わる事だし、皆了解して通り名であるヒノエで彼を呼び続けた。
そのためか、戦が終わり平和な世となった後も、当時共に過ごした仲間たちは彼の事をヒノエと呼ぶし、白龍の神子である望美も同様だった。
勿論、ヒノエの父である湛快や一部の幼馴染などはヒノエの名を使う事もあるが、それはあくまで非公式の場において。公務が絡んだり、他の熊野民がいる場所では湛増、もしくは別当や頭領――熊野海軍のとしての呼び名――で呼びかけてくる事が殆どだ。
その事が、今更とはいえ望美も気になったらしい。
「ねぇ、どう思う?」
問いかけてくる望美の瞳にうっすらと浮かぶ不安の色を払うように、ヒノエは努めて明るい口調で応じる。
「公の場でヒノエはまずいかもしれないけど、流石に自宅でまで、仕事を思い出すような名前で呼ばなくてもいいじゃん?」
「でも邸の人は皆、湛増さまって呼んでいるじゃない。私だけヒノエくんって呼んでいたら、おかしくない?」
「何故?」
何気ない反問は、随分と返事が戻るまで長かった。
促すように顔を覗き込むと、しぶしぶ口を開く。
「――女房さんや舎人さんに『ヒノエくん』って言うと、必ず『別当様』とか『湛増様』って言い直されるの」
「別にそれに他意はないだろ」
「……そうなのかな」
「そうだよ」
きっぱりと言い切り、ヒノエは望美の長い髪を指先で掬い上げた。
「あいつらは、藤原の邸に仕える郎党で、熊野の民で、広い意味でいえば熊野別当であるオレが守るべき奴らだ。だから、オレを職名に繋がる別当や湛増で呼ぶのは正しい。だけど望美は違う。いや、熊野の民なのは確かだけど――お前はオレの家族だからね」
そうだろ、奥方殿? と髪に唇を寄せながら囁けば、望美は頬を赤く染めながらも躊躇い無くこくりと頷いた。その様子に満足げに笑いつつ、ヒノエは髪を弄ぶ手とは逆の腕で、彼女の肩を引き寄せる。
「だからオレを私的な名前で呼ぶのは全く変じゃないさ。ま、本当は、お前のその可愛らしい声で紡がれるのなら、ヒノエでも湛増でも、なんでも構わないんだけどさ。でも、姫君に『ヒノエくん』って呼ばれると――あぁ帰ってきたな。ここがオレの場所なんだなって、ほっとするんだ」
「ヒノエくん……」
「勿論、熊野別当藤原湛増っていう名前に誇りはある。だけど、どんな船にも帰るべき港が必要なように、オレにも心安らげる母港が――お前っていう場所が必要なのさ」
ぱちん、と片目を瞑ってみせつつ、ヒノエは軽やかに笑う。
「お前しかオレをヒノエって呼ばない? 大いに結構! むしろ、お前しか呼べない特権と思っておけばいいじゃないか。藤原湛増という名は熊野のものだど、『ヒノエ』の名は、少なくともここではオレの奥方殿だけのものだよ?」
言い放たれた言葉に、望美は唖然とした様子で彼の顔を見返す。
悪戯っぽく輝く緋色の瞳を暫く見つめた後、片手を口元にあててくすくすと笑い声を漏らした。
「ヒノエくんってすごい」
「ん?」
「どうしてそんなに、ぽんぽんと私が嬉しくなる言葉が出てくるんだろう」
「それは勿論――」
つい、と望美の顎を持ち上げると、柔らかな桃色の唇に己のそれを重ね合わせる。
「オレがお前の夫だからじゃないかな? 惚れた相手の事を熟知しているのは当然のことだろ?」
自信満々の笑みを浮かべるヒノエに、望美は小声で馬鹿、などと呟きつつも、彼の求めに応じて甘い口づけを贈り返すのだった。
その人は、幾つもの名を持っている。
その中に、私にしか呼べないものがあることが――私の最大の幸せ。
- END -
||| あとがき |||
ちなみに上手く纏められなかったんですけど「私にしか呼べないもの」はヒノエの名じゃなくて夫という関係の事、を本当は示したかったのでした。
……あぁ文章力不足…orz

