オレだけの花
2009.11.22
恋愛ED後の別当夫妻 … 11月22日『いい夫婦の日』企画SS
- ヒノエ×望美
「お帰りなさいませ」
漣のように、口々に出迎えの言葉を女房たちが口にする。
鷹揚に頷いて出迎えを受けたヒノエは、下働きの童が差し出した桶の水で手早く足の汚れを落としてから立ち上がった。周囲に視線を走らせようとしたところへ、耳に馴染んだ足音が聞こえてくるのに気付く。ふっと口元に笑みが浮かんだ主の表情から待ち人の訪れを悟り、するすると女たちが動いて道を開く。色鮮やかな着物の波間から小走りに躍り出たのは、紫苑の髪をなびかせた少女。
「おかえりなさい、ヒノエくん」
僅かに息を弾ませて現れた望美へ、ヒノエは朗らかな笑みを向けた。
「ただいま、オレの奥方殿」
望美の腰を抱き寄せつつ頬へ唇を寄せれば、恥ずかしがる様子を見せながらも可愛らしい笑顔を返す。そんな初々しい様子の別当夫妻を見遣り、控えていた女房たちは静かに奥へ去っていく。舎人や童たちも、深々とお辞儀を残して足早にこの場を離れて行った。
別の時空から訪れたという白龍の神子が、熊野別当である藤原家へ輿入れして半年近くが過ぎた。
この時代に生きる女たちが知る常識やしきたりを何一つ知らない少女は、熊野へ来た当時こそ、その破天荒さで周囲の者たちを戸惑わせていた。だが半月も経たない内に、その様子は一変する。
最初は主に彼女の身近で世話をする歳若い女房や女童たちが、望美の飾らない人柄に心を開き、更に男童たちも彼女に懐くようになる。やがてその波は舎人たちへも波及し、いつしか館中どころか熊野全域へと広がって行った。ちなみに熊野水軍の男衆は、最初から白龍の神子に心酔しきっているので、この中には含まれない。
礼儀作法や筆跡のたどたどしさに関しては、未だに古参女房が頭を抱えているのも確かだが、そういったものは一朝一夕で身につくものではないし、望美が日々頑張って学んでいる事を皆が知っている。努力を惜しまない姿を賞賛することはあれども、『今出来ないから』といって侮るような不出来な従者は、藤原の邸に存在しない。
邸に仕える者たちにとって、歳若き別当とその奥方は自慢の主であり、彼らの為に出来ることならば何でもしてやりたい、と常々思うのだった。主の帰宅時の行動もその一つ。仕える者たちが総出で迎えるのは当然だが、特に指示がなければ挨拶だけに留め、二人きりの時間を邪魔しないようにするのも、仰々しい事を苦手とする北の方と、その彼女を独り占めしたい夫君の意図を汲んでの『決まりごと』だった。
「今日は随分と早かったね」
問いかける望美の声は、隠しようもない喜びに溢れている。
ここ暫くのヒノエは、別当職の務めに加え、新たな交易船が熊野に入港してきた事もあり帰宅が深夜となる事も多かった。だが、今日はまだ陽も随分と高い。望美の世界の感覚で言えば、まだ午後三時頃と言ったあたりだろうか。
だから油断していたわけではないのだが、ヒノエの出迎えが一歩遅れてしまった。
「お迎えするの遅れてゴメンね」
「ん? 遅れたって言うほどじゃないと思うけど」
望美の謝罪へ、ヒノエは不思議そうに首を傾げた。
「どうせ戻ってすぐは、急ぎの報告を聞いたりと慌しいんだ。丁度いい位だったとオレは思うけどね」
「でも、女房さんたちはもっと早くから居たのに」
不満げに唇を尖らせる望美を見て、ヒノエは宥めるように彼女の髪を梳いた。
「それは居る場所の遠さが違うからだよ。お前の居る部屋は、特に邸でも奥になるからね。……だけど急いで走って来てくれたんだろ? 足音で分かったよ」
「う……怒られるかと思ったけど、早く会いたくて」
奥向きを取り仕切る古参の女房を思い出して肩を竦めた望美は、それでも小声で心情を囁く。
普段は恥ずかしがって思いを口にする事の無い彼女だが、不意打ちのように向けられる言葉にいつもヒノエは打ちのめされる。うっかり赤面しそうになるのを堪えられたのは、人を統べる者として他人に感情を悟られないようにと訓練した日々の賜物だろう。
「随分可愛い事を言ってくれるね。ご褒美というわけではないけど、今日はもう出かけないからゆっくり出来るよ」
数日前、一度邸に戻りながらも四半刻も滞在せず、慌しく出て行く羽目になった時の事を示しながら、ヒノエは確約するように頷いた。
「本当!?」
ぱっと望美の瞳が輝く。
「よかった! またこの間みたいに『すぐ出かける』って言われるかと思ったんだ。……お仕事頑張っているヒノエくんを止める事は出来ないけど、でも少し休んで欲しかったから、すごく嬉しい」
にこにこと笑いながら告げる望美は、夫の健康を心から案じる妻の表情を浮かべていた。
「流石にここ二、三日は、お前の声を聞く事すらままならなかったからね。本当に寂しかったよ」
お前は? と問いかければ、望美はぷいと視線を逸らす。
「聞かなくても知ってるくせに」
「だって、お前の口から聞きたいんだよ。駄目かい?」
ねだる声を続ければ、言葉すくなに『寂しかったに決まってるよ』と応えが返る。
望美が言う通り、彼女の寄せる思いを疑うことは全くないが、それでも何かと言わせたがりな行動を繰り返すのは、望美称するところの「ヒノエくんの悪い癖」だ。
本当わざわざ毎日邸まで戻らず、勝浦の方に詰めて作業をしてしまえば少し仕事は早く終わったのかもしれないが、どうせ差が出ると言っても半日やそこら。そのためだけに何日も愛妻と会えないのは、ヒノエとしては我慢出来る事ではなかった。
声を聞かなくても、ましてや触れあいなど無くても、望美の寝顔を見るだけでも癒されるのだ。それは彼女を娶るまでは気付かなかった事だ。昔の自分を思えば想像もつかない変化だが、自分が変わること――望美に変えられる事、そして自身が望美を変えていくことは、酷く幸せなことではないかと思っている。
「オレがいないとどうにもならないような案件は全て片付けたし、後は他の奴らに任せて、オレはゆっくりと花を愛でて過ごそうかと思って」
艶めいた視線をヒノエは横を歩く望美へ向けるが、残念ながらそれに望美は気づかない。
「え、お花見するの? 今からだと外に行くと遅くなるよねぇ……。あっ、そうだ。奥の庭に、名前は分からないけど綺麗に咲いている花があったよ。それでもいい? お酒も、確かお義父さんが美味しいのがあるって持って来てくれたものが――…」
ヒノエの手を握り奥へ歩き出そうとした望美を、ヒノエは逆に引っ張って抱き寄せた。
「ちょっ、ヒノエくん!?」
危ないじゃない、と言いかけた口が、ふわりとヒノエの唇で塞がれる。重ねるだけのそれを何度か繰り返した後、最後に薄赤く染まった望美の頬へ小さく音を立てて口づけた。
「花はここでも十分堪能出来るけど……? オレ好みの色で咲き誇る、麗しい花が、ね」
頬にかかる紫苑の髪を指先に絡めながら囁けば、流石に望美も彼の示す『花』が何か理解する。
「んもう! そんなことばっかり言えるくらいなら、心配する必要なかったね!」
拗ねたように拘束する腕を振り払うと、先に立って望美は歩き出した。怒らせてしまったかな、と内心で苦笑を浮かべたヒノエは、数歩進んだ所で立ち止まり、己を振り返った望美の姿に思わず瞬いた。
「望美……?」
「ほら、ヒノエくん! お部屋戻ろう。ゆっくり、するんでしょ?」
目元を赤く染めながら手を差し伸べる望美の姿に、ヒノエは破顔して足早に歩み寄る。
そして白く細い指を絡め取る様に握り締めると、互いの目を見交わして微笑んだ後、並んで奥の居室へと歩き始めた。
- END -
||| あとがき |||
いい夫婦の日、というよりは、バカップルっぽい話になりました。
甘めの会話、甘めの会話――と念じながら書いてみましたが、如何でしたでしょうか。
いや、書きながらオンラインゲームでどんぱち戦ってたなんてことは言いませんが…!(ダメジャン)
というか、無駄に色気だけが増した気がするんですが、…ヒノエだし、いいよね?
小ぢんまりした家庭っていう感じの薬師夫妻に対して、熊野別当殿のほうは豪華に(?)仕上げてみました。いや、単に女房が一杯出てくるだけですが。

