緋の嚆矢

2009.11.07
「緋の烙印」の続きで、熊野 ヒノエが仲間になって間もない頃

- ヒノエ×望美


 望美がその道を見つけたのは偶然だった。
 涼を求めて宿の裏庭を彷徨っていた時、風に煽られて日よけの被き布が飛んで行ってしまった。それを追いかけて踏み入った藪の中に、細い獣道を発見したのだ。
「これ、どこに続くのかな?」
 興味がわけば一直線なのが、この白龍の神子だ。
(道に迷っても、下のほうを目指せば戻ってこられるよね。最悪、海を目指せばいいわけだし)
 前向きなようで、大変アバウトな考えのもと、望美は坂を登り始めた。
 しかし段々坂は急になり――だいぶへこたれかけたけど、ここまで来たなら最後まで! と気合を入れなおし、なんとか坂を登りきる。
「っ、は……ぁ、やっと平らな所に出た!」
 額の汗を拭った望美は、膝に手をあてて呼吸を整える。そうして顔をあげれば、眼前に広がるのは緑豊かな風景。
「わぁ、すごい、ここ……!」
 歓声をあげた望美は、崖手前にある大木の所へと走り寄った。
 高台から見下ろす光景は、ただ見事の一言に尽きた。青い空にたなびく雲は白く、眼下に広がる風景は生命力に満ちた緑色に溢れている。
 熊野の夏は美しい。素直にそう感じられる景色だった。
「でもこの枝がなければ、もう少し遠くまで色々見えそうなんだけどなぁ」
 海とか港が見えてもおかしくなさそうなのに、と腰に手をあてて呟いた所へ、突然声が降ってきた。
「――だったら、枝の上に来て見るかい?」
「誰!?」
 腰の剣に手を沿えて身構えた望美は、鋭く頭上――声のした方向を見上げた。
「オレだよ、姫君」
 がさがさと揺れる葉の間から覗いたのは真紅の髪。楽しげな声音は、よく考えれば聞き覚えがるもので、望美はぱっと剣から手を離した。
「ヒノエくん!」
「姫君一人でここまで来たのかい?」
 大振りな枝に腰を下ろして望美を見下ろすヒノエは、ゆったりと首を傾げる。
「涼しい場所ないかなって探してたら、上のほうへ行く道があったから」
「はは、随分と好奇心旺盛な姫君だね」
 楽しげに笑い、ヒノエは片手を望美へと差し出す。
「涼を求めてなら、ここは涼しいぜ。それに、どうせなら樹上からの絶景を見ることをオススメするよ」
「登れるかな?」
「手伝うから大丈夫さ。まずはそこに足かけて、手を伸ばして――オレに掴まって」
「こ、う…かなっ」
 ヒノエの指示に従い、幹にある出っ張りに足をかけ、枝に手を添える。そして伸ばされたヒノエの手を掴むと、予想よりも強い力でぐいっと上へ引き上げられた。
「わ、わわっ、ヒノエくん、すごい力だね」
「そりゃあ男ですから、これくらいはね」
 ぱちりと片目を瞑ってみせたヒノエは、改めて幹へ寄りかかり直すと、己の足の間に彼女の身体を抱き寄せた。
「落ちると危ないから、こうやって支えるのは我慢してくれな」
 背中から抱きしめるような格好にはなるが、他意はないのだと――そう告げて、ヒノエは腕に力を込める。疑う事もなく、望美は足元の枝と、ヒノエの腕に手を添えながら笑う。
「うん、ありがと」
 そしてヒノエを振り向こうとしたその視線が、途中でぴたりと止まる。
 ――空の方向を、見つめる瞳が、ゆっくりと見開かれ、驚きに輝きを増すのが見えた。
 二人が居る場所は、それほど高い枝の上というわけではない。しかし遮る枝葉が減った事で、がらりと視界は変わり、目の前に広がる光景は全くの別物と化していた。
「すごい……」
 溜息交じりの感嘆が、望美の驚きを如実に表している。
 海は太陽の光を反射して煌き、白い波頭は銀色の帯のようだ。そして滄海の手前に広がる町は、明るい活気に満ちて居るのがここからでもはっきりと見て取れた。
「どうだい? これが熊野の風景だよ」
 問いかけるヒノエの声が、どこか自慢げなのにも納得がいく。望美はもう一度「すごいね」と繰り返してから、ヒノエを振り返った。
「ちょっと上に登っただけで、こんなに変わるなんて思わなかったよ」
「オレの特等席さ。誰にも教えた事のない、秘密の場所だぜ」
「嘘ばっかり」
「本当さ。信じてくれないのかい?」
 首を傾げるようにして望美の顔を覗き込めば、翡翠色の瞳がからかうような色を含んでいるのが見えた。
「そんなこと言って、色んなお姫様をつれてきているんじゃないの?」
「残念ながら、ここまで登ってきてくれるような姫君はなかなかに居なくてね。教えたくても、教えられないのさ」
 肩を竦めるヒノエの言葉に、望美は来る途中の道を思い出す。
「あ。……それもそうか。あの坂は確かに厳しいね」
 怨霊退治や、剣の稽古で大分鍛えた自覚のある望美ですらきついと感じた坂道だ。着物を来た女性では、間違いなく辿りつけないだろう。
「そういうこと。だから本当に、ここに来たのは姫君が最初なんだよ。野郎なら、まぁ上がるのは造作もないだろうけど、男と同席するつもりは更々ないしね」
「ふふっ、ヒノエくんったら」
 強く吹いた風に靡く髪を片手で押さえながら、望美は礼の言葉を口にする。
「ヒミツの場所を教えてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
 恭しい調子でヒノエは応じる。
「でも本当にすごいなぁ。まるで空に手が届くみたいな気がするね」
 再び眼下の光景へ視線を戻した望美の横顔を、ヒノエはじっと見つめる。望美がその視線に気付き、居心地悪そうに身じろいでも尚、真っ直ぐに見続けていたら、ほんのりと頬を染めた望美が疑問の言葉を口にした。
「ヒ、ヒノエくん。私の顔に何かついてる?」
「ん? そうだな……美しい翡翠の瞳に、形のいい鼻、ほんのり染まった桜色の頬に、思わず触れてみたくなるような艶やかな唇――が、あるね」
 いつもの調子で紡がれる愛想のいい言葉に、望美は軽く唇を尖らせる。
「……んもう、真面目に聞いてるのに」
「オレだって真面目に答えてるよ」
 望美の腰を支える腕に力を込めれば、桜色と評した頬が、さらに色付きを増していく。
「私なんかより、この綺麗な風景を見れば良いのに」
「熊野の姿はいつでも見られるけど、その光景に浮かぶ美しい姫君の姿は、今しか見られないからね。堪能しておかないと」
「ああ言えばこう言う。本当にヒノエくんは口が達者なんだから」
 呆れた様な口調だが、表情はどちらかといえば楽しげなもので、煌く翡翠の瞳は、ゆったりと細められていた。
「でも、私、知ってるよ。ヒノエくんが本当に見ているのは私じゃない。本当に気になるのは『白龍の神子』でしょ?」
「え?」
「ヒノエくんは、私の名前を呼ばない。春日望美という人物には用がないから。違うかな」
 緩やかに紡がれた言葉に、ヒノエはほんの僅か目を瞠る。
 だが、動揺を外に出すような事はしない。普段と変わらぬ声で、彼は応じる。
「そんなことはない、って言っても信じてもらえないだろうね。……そうだな、確かに否定はしないよ」
 ここまで言い切られた以上、どんな言葉を告げて見せても彼女の心象は変わらないだろう、とヒノエは考える。
 だったら、もう少しだけ手の内を見せてみてもいい。
 ヒノエは腕の力を緩めぬまま、真っ直ぐに望美を見据えて言葉を紡いだ。
「オレにとっての一番は熊野なんだ。その熊野を離れてまで、白龍の神子……ひいては彼女が属する源氏に力を貸すべきか。……オレはね、正直言って迷っている。八葉として選ばれた以上は、その務めを果たすべきなんだろうけれど、全てを投げ打って姫君の為に戦えるかって聞かれれば、今の段階では、すまないけど答えは『否』なんだよ」
「そうだよねぇ。うん、分かるよ」
 ヒノエの言葉に、望美はあっさりと頷いた。
「私だって、最初白龍の神子とか言われたときは、びっくりしたし、なんで私が! って思ったもんね。ヒノエくんの言いたい事も、よく分かるよ」
 あっけらかんとした口調で言われる内容に、ヒノエは応じる言葉を失う。
「――いいよ、どれだけだって見ていて構わない。黙って『力を貸して』なんて言えないからね。好きなだけ確かめればいいよ。でもね、ヒノエくん」
 不意に、望美の雰囲気が変わる。
 それまでの親しみやすい少女の姿から、別の――なにかへと。
 するりと上がった望美の指が、ヒノエの眉間にある宝玉に触れる。余人の目には映らない、八葉の証を愛しげな仕草で望美はなぞる。
「私は、必要があれば『君の力』を使うことを躊躇わない。皆を守るために必要なら、君の持つ『離』の力、力ずくでも引き出してみせる」
 口調自体は先ほどとなんら変わらない。ただその響きだけが、どこか透徹な、強い意思を持つものへと変化していた。
 受け取り様によっては随分と乱暴な事を言ってのけた神子は、それきりぴたりと口を噤む。
 ヒノエはそんな望美の顔を随分と長く見つめていたが、やがて真紅の瞳を楽しげに煌かせながら口を開いた。
「それが姫君の覚悟って奴かい? 随分と苛烈な心意気だね」
「ううん。そんな格好いいものじゃないよ。ただ、私が我儘なだけ。……――する為には、私は迷っていられないんだ」
「え?」
 望美の呟きが聞き取れずに思わず聞き返せば、返って来るのは静かな微笑。それ以上の問いを拒絶する表情に、ヒノエは視線を奪われる。
「あ、でもそうだね。戦闘でヒノエくんに無理を強いることはないよ」
 ぽん、と両手を合わせた望美は、首を捻るようにしてヒノエを振り仰いだ。
 語尾を笑みで揺らす声は、既に普段の彼女のそれへと戻っている。その変化はあまりにも鮮やか過ぎて、ヒノエは目が離せずにいる。
「火属性なら白龍がいるから十分だし、ヒノエくんに迷惑をかけることはないから、安心して」
「迷惑って」
「あれ、違った? そんな感じがしたんだけどなぁ」
 訝しげに首を捻る少女へ否定の言葉を告げようとした時、ヒノエの耳が第三者の足音を聞きつけた。ざくざくと下草を踏みつける音は大きく、男の足音である事を知らしめる。
 望美も聞きつけたのだろう。腕の中の肢体が緊張で僅かに硬くなる。
『静かに』
 吐息だけで告げれば、無言の頷きが返される。動きさえしなければ、下から彼らを見る事は出来ない。ただの人ならばやり過ごすし、そうでないならば……。
(ま、そうそう変な奴が来るとは思えないけどな)
 仮にも熊野別当所領の土地だ。要所要所には烏の見張りが立っている。そこから知らせが来ないと言う事は、無害な人物の可能性が高いはずだ。
 だが油断は禁物。ヒノエは呼吸を整えながら、近づいてくる気配を探った。
 しかし、その緊張はあっさりと破られる。
「――望美! いないのか!?」
 朗々と響く声は、ヒノエもよく知る人物のものであった。
「え、九郎さん?」
 止めるより早く、望美が声をあげる。
「九郎さん、ここだよ!」
 枝を鳴らし、望美は地上へいる男の名前を呼ぶ。
 九郎はどこから呼ばれたのか分からず、何度か左右を見回すが、やがて頭上――木の上からだと気付いたらしい。
「望美」
 ほっとしたように少女の名を呼んだ九郎は、その特徴的な橙の髪を揺らして走り寄ってきた。
「なんだお前、そんな場所に登って猿のようだな……と、ヒノエ? お前も居たのか」
 腰に手をあてて木の上を見上げつつ文句を言いかけた九郎は、望美の背後に居るヒノエを認めて口を閉ざす。その視線が、望美の腰を抱くヒノエの腕を認めた途端、不機嫌そうに男らしい眉根が寄せられた。
(へぇ?)
 ヒノエは九郎へ愛想よく挨拶しつつも、望美に沿わせた腕を微妙に動かしてみせた。それはまるで愛撫をして見せるかのような仕草。実際は、彼女の服にすら触れていないのだが、距離を置いている九郎からは、かなりの色気を伴う所作に見えたはずだ。見上げてくる表情こそ変わらないものの、九郎が強く拳を握り締めるのがヒノエの視界に映る。
(ふぅん)
 九郎の反応に満足し、ヒノエは動かした腕を、他意のない、単純に彼女を支えるだけのものへと戻す。
 そんな微妙なやり取りには気付かず、望美はむくれた顔を九郎へ向ける。
「ひっどーい! そりゃあ女らしさには程遠いかもしれないですけどっ」
「拗ねるな。それより朔殿が探していたぞ。温泉へ行く約束がどうのと言っていたが」
「あ、そうだった! 朔、すごく探してた?」
 焦りの表情を浮かべた望美は、身を乗り出すようにして九郎へ問いかける。
「ああ。お前、どこに行くとも言い置いていかなかっただろう。たまたま、お前が裏庭の方に居たと宿の者が見ていたおかげで、探しに来られたが、出かける前には必ず誰かに言って行けと――」
「うわーん、朔ぅ、ごめんねー、愛してるから許して!」
「…――お前、ちゃんと人の話を聞け。むしろ謝るなら、戻った後に朔殿の前で言え」
「言う言う、朔の為なら土下座だってしちゃう。そんなわけでヒノエくん、ごめんね。私、宿に帰るから!」
「あ、あぁ……気をつけて戻れよ」
 二人の会話に半分呆気にとられていたヒノエは、そっと望美の腰に回していた腕を解く。
「そうだ。また、ここに来てもいいかな?」
 望美のねだる口調に、ヒノエは自然と笑みが浮かぶ。
「勿論。ここ以外の場所でも、姫君の来訪はいつでも大歓迎だよ。――それより、姫君一人で降りらるかい?」
「うーん、登れたんだから大丈夫じゃないかな。……多分きっと」
「なんなら手伝うぜ?」
 腰を浮かせ、下へ降りようとしたヒノエを、九郎が短く名を呼んで制した。
「ヒノエ、大丈夫だ」
 そして改めて望美へ向き直る。
「ほら、望美。――来い」
 真っ直ぐに伸ばされた腕を見て、望美はふわりと微笑んだ。
「はーい。それじゃヒノエくん、またね」
「え?」
 短い挨拶の後、望美の姿が紫苑の残像を残して消えうせる。驚いて身を乗り出せば、伸ばされた九郎の腕の中へ迷うことなく飛び降りる少女の姿が見えた。九郎もそれを当然のように抱きとめ、短い抱擁を経て地面へ降ろす。
 まるで一幅の絵のように見えた光景は、直後の九郎の科白で台無しになった。
「――ッ、お前、もう少し痩せろ」
「ええ~っ、剣の修業でついた筋肉落としていいなら明日からでもダイエットします」
 まるで売り言葉に買い言葉な会話のやり取りだが、望美の反論は、微妙に論点がずれている。
「だいえっと……?」
「減量するってことです。筋肉と乳の分だけ重いのは我慢して下さい。っていうか、そもそも痩せろなんて、乙女に言う台詞じゃないですからね?」
「あのなぁ、乙女が筋肉とか、ち……乳とか言うんじゃない」
「わー、九郎さん照れてる、かっわいーい」
 騒々しい声が遠ざかるのを聞きながら、ヒノエは木の幹へどさりと背を預けた。
「何なんだ、あいつら」
 ぐったりと身体の力を抜き、ヒノエは望美との会話を――九郎の向けてきた視線を思い出す。
「本当に……興味深いね」
 白龍の神子。
 そして、彼女を取り巻く八葉たち。
「八葉は神子を守る存在。――では、守ろうと思う心は何から生まれる?」
 無造作に前髪をかきあげれば、その指先に触れる宝玉。
「嫌いな奴を守ろうとは、やっぱり思えないよな」
 宝玉は、それを持つ者全てに等しく、神子への憧憬すら植えつけるのだろうか。
(否、そうじゃない)
 もしもそうならば、初めて会った時から無条件に彼女に従っているはずだ。オレはそうじゃなかった――と、ヒノエは否定する。
「春日望美、か」
 小さく彼女の名を口ずさむ。驚くほど甘い響きになった声に気付き、ヒノエは口の端に笑みを浮かべる。
「炎を、移されたかな?」
 役目という端的な言葉だけで命を賭ける事は出来ないとヒノエは思うのだ。それこそ燃えるような――この身を焼き尽くしても構わないほどの想いがあってこそ。
 ヒノエはあの時、九郎の視線にそれを感じ取った。
 逸らすことなく突きつけられた彼の視線は、確かにヒノエの心に何かを残したのだ。

- END -

 

||| あとがき |||

タイトルの「嚆矢(こうし)」とは、いわゆる鏑矢(かぶらや)のこと。飛ぶときに大きな音を出す装置(鏑)を付けた矢のことです。
昔、戦では鏑矢を互いに放って戦を始めたことから転じて『物事の始め』を意味する言葉だそうです。


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