夢見るように甘く

2009.12.05
ED後の京 薬師夫妻

- 弁慶×望美


 その時、弁慶は患者の訴える痛みの話を聞いていたので、彼女たちの交わした会話の内容は分からなかった。ただ見えたのは、望美が何か複数の感情が混ざったような、不思議な表情を浮かべたことだけだった。


「望美さん」
「はい、なんですか弁慶さん」
 夕餉の後、洗い物を終えて戻ってきた望美の名を呼んだ弁慶は、笑顔のまま、視線だけで隣に座るように促す。特に疑問もなくそれに従った望美は、ぺたんと少し崩した正座で腰を下ろす。
「どうしたんですか?」
「それは僕の台詞ですよ」
 さりげなく彼女の手を取り、逃げられないようにこっそりと拘束してから弁慶は問いかける。
「昼間、何かあったんですか?」
「えっ?」
 望美は驚いて目を数度瞬いた。
「なにかありましたっけ……」
「覚えていないんですか? ――なにかこう、辛そうな……と言い切れるわけではないのですが、そんな表情を浮かべていたから気になっていたんです」
 弁慶は片手を伸ばして望美の頬を撫でた。まるでその時の、言葉に出来ない表情を望美の顔から拭い去ろうとするかのように丁寧で優しい仕草だったから、望美は眼を細めて彼の手のひらへ自分の顔を摺り寄せた。
「私の気付かない事まで、弁慶さんは気付いちゃうんですね」
「他ならぬ、望美さんの事ですから」
 自慢げに告げる弁慶の声に、小さく声を立てて笑う。
「私も負けないように弁慶さんを観察しなきゃ。……あのね、弁慶さん。もしかしたら、この時かもっていうの思い出しました」
「聞かせてもらえますか?」
 頬に添えていた手をずらして望美の肩を抱き寄せると、己の胸元へ抱え込むようにしながら弁慶は話を請う。頷いた望美は、ゆっくりと、その時の事を思い出しながら言葉を継ぐ。
「今日、小さい子たちが来ていたでしょ?」
「いましたね」
 弁慶は今日訪れた患者たちを思い出しながら応じる。確か母親が眼を痛めたため、それに付き添ってきた子供たちだったはずだ。十を少し越えたばかりの少女と、それより二つ三つ年少と思われる妹は、母親の手を左右それぞれに取り足元を気遣いながら歩いて来たのだった。幸い失明に至るようなものではなく、薬をつけて安静にすれば明日あたりには回復するような軽度なもので、診た弁慶も安堵したのを覚えている。
「確か帰りは、望美さんも送っていきましたよね」
「うん。だって危ないですよね? 小さい子だけだと」
「そうですね。僕も気になってはいたのですが、他の患者さんで手が離せませんでしたから、望美さんが一緒に行ってくれてほっとしました。ありがとうございます」
 礼の言葉と共に肩に添えられた手に僅かに力が籠る。言葉と体温と、両方で感じる温かさに望美も微笑みを返す。
「それで、ね。あの子たちが待っている間退屈だろうからって、以前弁慶さんが用意しておいてくれたお道具を出してあげたんですよ」
 彼らの庵を訪れる患者は、実は結構な人数だ。
 元々五条界隈で名の知れていた薬師であることに加え、的確な治療と破格に安い診療代で噂が噂を呼び、京の町を遠く離れた場所からも患者が来るようになっていた。
 薬師の仕事で生計を立てている以上嬉しくはあるのだが、その分患者を待たせる時間も増えてしまう。そこで望美が思い出したのが、現代の病院にある「待合室」の様子だ。本や雑誌、玩具等が置かれ、退屈な時間を紛らわすことが出来るようにしてあるそれを思い出した望美は、弁慶に相談し、子供でも読めるような絵巻物や草紙と言ったものを用意して貰ったのだった。
「喜んで遊びだしてくれたんだけど……」
 そう言って浮かない表情で言葉を切った望美を、弁慶は訝しげに見つめた。
「けれど――どうしたのですか?」
「あの子たちに『お姉ちゃんも一緒に遊ぼう』って言われて」
「ええ」
「……私、時間がなかったわけじゃないんです。弁慶さんに比べて出来ることは少ないし、そんなにお仕事もないから、本当に役に立ってるのかなぁとか自信がなくな……」
「望美さん、望美さん」
 弁慶は慌てて彼女の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「落ち着いて下さい。君が僕の役に立ってないなんて事は、絶対にないです。その辺の誤解はあとでゆっくり解いて差し上げることにして――とりあえず、話がずれてしまってますから」
「あっ」
 本当ですね、と呟いて望美は己の頬を手で押さえた。
「子どもたちに一緒に遊ぼうって言われて、それでどうしたんですか?」
 あやすような手の動きを止めぬまま、弁慶は望美の話を促す。
「……私ね、遊び方を知らなかったんです」
 ぽつりと落ちてきた告白の意味を咀嚼するように、弁慶は何度か瞬き、それからゆるりと首をめぐらせて望美を見下ろした。
「遊び方? なんのですか?」
 考えては見たものの、上手く理解が出来なかった弁慶は、言葉の意味を問いかけた。
「うーん、色々と?」
 弁慶の胸元に頭を寄せたまま、望美は僅かに語尾を上げた、自分で言っているくせに疑問形となる言葉を返す。
「遊ぼうって言われて、なんか貝殻みたいなものを見せられて――なんだろうって思って、やっと思い出したんですよ。私、この時代の子供たちの遊びを知らないんですよね」
「……そう、ですよね」
 どれだけ今の京に馴染んでいても、生まれ育ったのは別の時空だ。今の生活に必要な知恵や習慣は必死に身につけた望美だが、子供時代に自然と学ぶような事は全く知らないと言ってもいいのだ。
「素直に『知らない』って言っても良かったのかもしれないけど、なんかあの子たちを見てたら言い出しにくくって……それで今忙しいから、って嘘をついてしまったんです」
「そういう事だったんですね」
 望美の話を聞き終えた弁慶は、納得したように頷いた。
「では望美さん。この世界の遊びを体験してみませんか?」
「え?」
「何事も経験ですしね。将来の役にも立つでしょうから」
 どうですか、と誘いかける弁慶の言葉を断る理由が望美にはない。
「よろしくお願いします」
 そう、頭を下げたのだった。


 そして望美に誘いの言葉を告げた弁慶も、実はそれほど子供の遊びに詳しいわけではない。
「女の子の遊びとなれば、やはり朔殿が詳しいでしょうから」
 景時を通じて朔の了解を得た弁慶は、望美を伴って景時の邸へ向かっていた。
「二人ともいらっしゃい」
「わぁい、朔ぅ~。久しぶり!」
 にこやかに出迎えた朔に抱きつく望美に小さく苦笑を漏らした弁慶は、携えてきた荷物を朔に手渡す。
「では朔殿、宜しくお願いします」
「ええ、任せておいて。行きましょう、望美」
「え? どこに?」
 疑問を口にしながらも、朔に逆らう事など考えない望美は、手を引かれるまま彼女の後を追う。それを見送った弁慶は、邸の主が待つはずの部屋目指して踵を返した。
「やあ、弁慶、待ってたよ」
 辿りついた部屋では景時が弁慶を迎え入れる。広い室内には仄かに香が焚き染められ、優雅な雰囲気を醸し出しているが、弁慶はそれよりも、景時の斜め前に端座している青年の姿に眼を瞠った。
「敦盛くん?」
「お久し振りです、弁慶殿」
 ゆるりと微笑んだ敦盛は、その笑みのまま会釈をする。
「君が来ているとは思いませんでした」
 敦盛と向かい合う位置に腰を下ろしながら、弁慶も穏やかな声で彼に応じる。
「山の幸を届けに来た。景時殿にお渡ししたら、そちらの庵を訪ねるつもりだったのだが、丁度神子たちも訪れると言うので待たせて頂いていた。弁慶殿に頼まれた薬草も、リズ先生が見つけてくださったので持ってきている」
 あちらに、と敦盛が向けた視線の先には、布がかかった大きな籠が置かれている。
「いつも本当にありがとうございます」
 薬草、と聞いて弁慶の声が明るさを増す。ある意味現金な反応に、景時は笑って肩を竦めた。
「ほんっと弁慶は相変わらずだね~。書物と薬草があれば満足って感じ?」
「まさか。そんなことはありませんよ」
 心外そうな表情で、弁慶は景時を見遣った。
「書物も薬草も、勿論あれば嬉しいです。ですが何よりも大事なものは、望美さんですから」
 そういって笑う表情は、源氏の軍師として名を馳せていた時代からは想像もつかないほど柔らかい光に満ちていて、彼を見詰める男たちは驚きと、そして喜びを噛み締める。これぞと決めた目的のためには、己の命すらも全て手駒として物のように扱う男だった弁慶が、これほど素直に他人へ執着し、その事を誇らしげな程に語る姿が嬉しかった。
 でも素直に喜んでやるのはちょっぴり口惜しかった景時と敦盛は、ちらりと視線を見交わした後、二人揃って大仰な溜息をついてみせた。
「弁慶~、なにそれ惚気? 朝から随分聞かせてくれるね~」
「ふふっ、素直に羨ましいと言ってもいいんですよ、景時」
「言わないよ! 全くもう……それよりも先に、オレに言うことあるんじゃない?」
 じっと弁慶の顔を見た景時に、弁慶は小さく笑って頭を下げた。
「そうでしたね。景時、急に色々頼んで済みませんでしたね」
「いいえ、どういたしまして。オレも準備するの楽しかったし、朔なんかはもっとだよ。あんなに楽しそうにしている朔、久し振りに見たよ」
 兄馬鹿の顔を曝け出す景時に、今度は弁慶と敦盛が視線を見交わした。
「すみませんね、敦盛くん」
「は? 何がだろうか……」
「駄目な大人二人、って感じで」
 身内に盲目的な愛を注いでいる年長組を自嘲しての弁慶の言葉だが、敦盛は逆にどう反応していいか答えに窮してしまったようだ。
「え? いや、そんなことはないと思うが」
 しどろもどろに返答をしかけたその時、涼やかな声が入り口に置いた几帳の向こう側から響いてきた。
「ごめんなさい、お待たせして」
 にこりと微笑んで姿を現したのは朔で、その左手は、後ろ側の方へと引かれている。
「いいえ。待つのも楽しみの一つですから」
「朔、お疲れ様」
「弁慶殿の言う通りだ。久しぶりにゆっくり話を楽しませて頂いた」
 にこやかに応じたのは弁慶で、彼女の兄は妹にねぎらいの言葉を投げかける。敦盛も穏やかに頷いて、朔へ挨拶代わりの会釈を向けた。
 その敦盛の言葉にびっくりした声を上げたのが、朔の後ろに居る人物、そう望美だ。
「えっ! 敦盛さんも居るんですか?」
「……居てはなにか不都合だっただろうか」
 僅かに沈む敦盛の声に、几帳越しにも慌てた気配が届く。
「ううん! そうじゃなくって、驚いたっていうか心の準備が出来ていないっていうか、その……」
 もごもごと意味を成さない言葉を綴る彼女に痺れを切らし、朔は振り返ると両手で望美の腕を取った。
「もう、望美ったら往生際が悪いわよ? 凄く似合って居るのだから、皆に見せて差し上げなさい」
 そういってぐいっと全身の力を込めて腕を引くと、まろび出るように望美の姿が現れる。
「さ、朔!」
「どうですか?」
 親友の肩に手を添え、朔は優雅に男たちを見渡した。朔の視線はどこか自慢気ですらあるが、それもそのはず。朔の隣で俯く望美は、彼女の手によって貴族の姫君の如き姿に変身していたのだった。
 ほっそりとした肢体を包むのは大輪の花が描かれた袿で、艶めく表地は、上質な絹織物である事を窺わせる。京邸へ来る時無造作に括られていた髪は油をつけて梳きなおした上で一部を結い上げ、繊細な銀細工が施された簪で留めていた。まさに花も恥らう艶姿で、それを演出した朔は勿論大満足なのだが、着慣れない袿を纏わされた望美本人は、恥ずかしがって顔も上げられずにいたりするのだ。
 着替えた室を出るまで「こんなの似合わないよ!」と叫んでいた望美の意見と、彼女の姿を見る他の面々の意見は勿論対極になるわけで、瞬く間に賛辞の声が上がる事になる。
「すごいや、望美ちゃん」
 真っ先に景時が感嘆の声をあげた。
「お姫様みたいだね。よく似合ってるよ~!」
「ああ、本当に。とても綺麗だ、神子」
 敦盛も淡々とした言葉ながらも、感動の滲む声で頷いた。
 白龍の神子として纏っていた陣羽織も、普段の生活で着ている着物も、どちらも望美の魅力を損なうものではなく寧ろそれぞれに彼女の良さを引き出してはいたが、やはり盛装は一味違う。特に今日の衣は可愛らしさを強調した娘的な造りで、凛とした望美の容貌を柔らかく彩っている。
「あ、ありがとう……」
 恥ずかしさと照れが混ざった声で望美は応じるが、ふと足りぬ声に気付いて顔を上げた。そろそろと視線を巡らせ、その人物へと目を向ける。望美の動きに気付いた朔の視線がそれを追い、更に敦盛、景時と続く。全員の視線を集める事になった弁慶は、要するに言葉もなく望美に見惚れていたわけだが、彼女の何か訴えるような視線に気付いた途端、素早く立ち上がった。数歩とない彼我の距離を足早に詰めると、零れ落ちるような笑みと共に、弁慶は望美の肩を抱き寄せ、己の懐へと閉じ込めた。
「べ、弁慶さん?」
「本当に君は――どこまで僕の期待を、可憐に裏切るのでしょう」
 衆目の中で抱きしめられた望美は、反射的に頬を赤く染める。祝言も挙げ、名実共に弁慶の妻となって久しい身ながら、こういった触れ合いを他人、特に親しい仲間に見られると言うのは未だに気恥ずかしさの方が先立つのだ。
「え、ちょっ、ちょっと弁慶さんっ!」
 慌てる望美をぎゅっと強く抱きしめた後、弁慶は両肩に手を添えたまま少し離れ、上から下へ、再び上へ――彼女の装いを目に焼き付けるように視線を巡らせる。
「本当によくお似合いですよ。景時にも、敦盛くんにも見せたくない位に」
「あらあら」
 すぐ傍に居たせいで、弁慶の熱烈な囁きを耳にしてしまった朔は、呆れたように――でも温かく笑いながら、彼らの傍を離れ、兄の隣へと腰をおろした。そして景時から受け取った茶を飲んで一息ついてから、改めて弁慶に声をかける。
「弁慶殿。望美が可愛いのは分かりましたから、そろそろお座りになられては如何です。まだこれからが本番なのですから」
「そうでしたね。つい我を忘れてしまいました。お恥ずかしい」
 言葉を裏切る表情で飄々と笑い、弁慶は望美の手を引いて元居た席へと戻った。望美も弁慶に促されるまま、彼のすぐ脇に腰をおろす。慣れぬ長さの裾に戸惑う望美と、それに気づいて甲斐甲斐しく手伝う弁慶の様子は、残りの仲間たちに取っても微笑ましいもので、ようやく全員が座に落ち着いた所で、今日の進行役を自認している景時が口火を切った。
「それじゃあ、揃った事だし始めようか~!」
「す、すみません。これから何をするんですか……?」
 ――そうして景時が張り切って上げた声は、神子の挙手で台無しになった。


 四半刻後、真剣な眼差しで床に置かれた『モノ』を凝視していた。
 ぐるりと円状に置かれているのは貝殻である。中央に十二個、その外側に十九個、更に外側へ二十六……と、七個ずつ円の中の数を増やしながら同心円状に並んだそれは、この時代、主に貴族の子弟が嗜んだ貝を使った遊び。望美の知る神経衰弱に似た、ぴたりと合う貝殻同士を見つけ出す遊びは、始めてみればなかなかに難しく、望美は本気で考えこんでいた。
 神経衰弱の場合、場に全てのカードを出しておいて同じ柄となるカードを探す遊びになる訳だが、貝覆いまたは貝あわせと呼ばれるこの遊戯では、探す対象となる貝殻は『出役』と呼ばれる人によって一つずつ場の中央に置かれる。この『出貝』を見、場に並んだ『地貝』の中から対となるものを探すのだ。記憶力重視の神経衰弱と違い、観察力の方が重要となってくる遊びだ。
 場に置かれた貝は本来九周分、三百六十個の貝を並べる。今回は初めてと言う事で円は四重で丁度九十個に押さえてある。それでも初心者には本当に難しく、残念ながら望美はまだ一つも正解を得ていない。
「落ち着いてやれば大丈夫ですよ」
 出役を兼ねながら望美の指導をしている弁慶が、優しく声をかける。その声に頷いてはいるものの、返事は返ってこない。その集中力に、弁慶を始めとして、周囲の友人たちは思わず笑みを零す。彼女のここ一番と言うときの集中力は凄まじい。
「これかな……」
 小さく呟き、両手に取った貝殻を恐る恐る合わせて行く。
 カチリ、と微かな音を立てて組み合わさった貝を見て、ゆっくりと望美の目が見開かれる。
「出来た!」
 ぱっと翡翠の瞳に喜色が溢れ、その視線は隣に座る人へと向けられる。
「出来ましたよ、弁慶さん!」
「良かったですね、望美さん」
 無邪気な報告に弁慶も頬を緩める。
 その後は、大分慣れてきた望美も貝を見事にあわせられる回数も増え、大いに遊びも盛り上がり、朔の勝利で終わった貝あわせの後は、敦盛の笛を聞いたり、景時と弁慶が双六の手本を見せたり――と、色々な遊びを楽しんだ。


「今日はどうでしたか?」
 帰宅して夫婦で囲んだ夕餉の後、弁慶は望美に問いかけた。
「楽しかったですよ。……あんなに色々な遊びがあるって思わなかったです」
「そうですか。それは良かった」
「弁慶さんはどうでしたか? 退屈じゃなかったですか?」
「いいえ?」
 笑って首を横に振った彼は、望美のほうへ両手を差し伸べた。促すように僅かに動いた指先の意図を察し、その腕に己の身体を預ける。ぽすっと軽い音を立てて頬を胸元へ押し付けた望美は、そのままの姿勢で口を開いた。
「本当に?」
「勿論。僕が望美さんに嘘をつくとでも?」
「そんな聞き方はずるいです」
 拗ねた声を上げる望美に、弁慶は楽しげに声を立てて笑った。
「ふふっ、そうでしたね。――僕たちの世界で十七、十八っていえば元服も済ませた大人なんですけど、望美さんの世界では違うんでしょう?」
「そうですね。二十歳で成人扱いになりますね」
「白龍の神子として戦い、源氏の旗頭としても望まれ。辛い事を強いていると思いながらも、君を一足飛びに大人にしてしまったから……子供らしいことを、体験させてあげたかったんですよ」
 望美の髪を梳きながら、弁慶はゆっくりと囁いた。
「なんて。本当は僕が、君を甘やかしたいだけなんだけど」
「えっ?」
 朗らかな笑みをはらんだ声に、望美は反射的に顔を上げた。
 翡翠の瞳が見詰める先には、黒衣を纏う事を辞めた男の幸福に満ちた笑顔があった。軍師を辞め、薬師としての生活を始めて以来、弁慶の表情は常に穏やかで、時には明るく声を立てて笑う事が多くなった。その事が望美には嬉しいし、彼の笑顔を引き出すのがずっと自分であればいいと願うのだ。
 見上げた琥珀の瞳が、更に柔らかく笑みの形に細められる。
「綺麗に着飾った可愛らしい君を見て、僕が楽しみたかっただけなのかもしれません。本当に綺麗でしたよ。いつか君に着せたいと思って用意していた甲斐がありました」
「弁慶さんったら、いつの間にそんなものを用意したんですか?」
「春……だったかな? 本当はそれを着た君と、一緒に花を見たいと思っていたんです。桜の花の下で、僕の選んだ衣を纏う君が見て見たかったんですよ。ただ、春先はあまりにも忙しかったもので……願いが叶いませんでした」
 溜息混じりに応えた弁慶の春は、軍師を辞するための引継ぎやらで家にすら帰れない日々が続いていたのだ。仕方のなかった事とはいえ、当時を思い出して弁慶の口調が苦々しくなる。
「それじゃ、来年一緒に見に行きましょう?」
「望美さん?」
 弁慶の顔へ手を伸ばし、頬の温もりを味わうように指を沿わせながら笑いかける。
「それまでに、朔に習ってちゃんと着物が着られるようになっておきますから。――二人で桜、見に行きましょう」
「ありがとう望美さん」
「やだなぁ、弁慶さん。言葉が間違ってますよ」
 一本伸ばした指で、望美は弁慶の唇を押さえる。
「そこは『約束ですよ』って言うんです」
「あぁ……」
 一瞬呆気に取られたような顔をし、それから弁慶は笑みを深くする。
「そうですね。では改めて、望美さん。約束しましょう。来年は二人で桜を見に行く事を」
「はい、喜んで」
 そして誓うように触れるだけの口づけを交わした二人は、額の触れ合う距離でくすくすと笑い合う。
「楽しみですね」
「うん。――ねぇ弁慶さん。もっと沢山たくさん、約束していきましょうね」
 楽しい時も、辛い時も、全てを互いで分かち合うために。

- END -

 

||| あとがき |||

弁慶が望美さんを着飾らせて楽しむだけのお話です。たぶんきっと…。


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