満ち足りた朝

2009.11.02
恋愛ED後の薬師夫妻 : 「小さなしあわせ」の続き

- 弁慶×望美


 薬師夫婦の朝は、今日も早い。
 朝日が昇りきる前に目覚めた弁慶は、数度ゆっくりと瞬いて意識を完全に覚醒させると、半身を起して愛妻の寝顔を見下ろした。薄く開いた唇から漏れる穏やかな寝息に、自然と笑みが浮かんでくる。
 目覚めてすぐ、望美の姿を目にすることが出来る日々。
 それはいつ見ても、何度見ても、弁慶の胸にしあわせという気持ちを呼び起こす光景だ。
(本当なら、もう少し寝かせておきたい所ですが)
 弁慶は手を伸ばし、軽く頬に触れて彼女の目覚めを促す。
「望美さん、朝ですよ。起きてください」
「…んっ、……あ、れ? わたし、ねすごしましたか?」
 意識が覚醒しきっていないためか、紡がれる言葉はどこかたどたどしい。彼女の耳にきちんと届くよう、ゆっくりと弁慶は声をかける。
「いいえ、大丈夫ですよ、まだ十分に早いですから」
「よかったぁ」
 頬に触れている手を取ってきゅっと握り締めた後、望美も褥の上へ起き上がって座り直す。
「おはようございます、弁慶さん」
「はい、おはようございます」
 朝の挨拶を微笑みと共に交わした後、望美は納得したように弁慶の姿を見遣る。
「本当だ。弁慶さんもまだ着替えてないんですね」
「はい。髪を結えてからの方が、僕の場合着替えやすいですから。――今日は君が、僕の髪を整えてくれるのでしょう?」
 それで早く起こしてしまいました、と照れくさそうに弁慶が笑えば、望美はすっかりと目が覚めたのか、明るい笑顔で応じる。
「そうですよ。起こしてくれてありがとうございます。すぐに準備しますね」
 望美は眠る前に『すぐ使えるように』と枕元に纏めておいた櫛と髪紐を手に取る。
「弁慶さん、後ろ向いて下さいね」
 促されて背を向けた弁慶は、望美が髪を梳る優しい手つきに、ほんの僅か目を細める。やや癖のある弁慶の髪だが、見た目に反し、寝ている間もそれほど縺れたり絡んだりという事は無いらしい。
「さらさらしてる。触っていて気持ちいいです」
「そうですか? 君の髪の方が、ずっと触り心地がいいと思いますが」
「それは弁慶さんの感想でしょう。私は、弁慶さんの髪が大好きですよ」
「……髪だけ、ですか?」
 短い沈黙の後に弁慶が口走った言葉に、望美はぴたりと髪を梳く手を止める。
 夫婦となって以降、時折弁慶が口にする甘えの言葉。
(かわいいな)
 口には出せないけれど、じわりと望美の胸に喜びが溢れ出てくる。再び手を動かしながら、望美は上体を傾けて、弁慶の耳元へ口を寄せる。
「言わないと分かりませんか?」
「君の口から聞きたいんです」
 僅かに首を傾けて振り返る弁慶へ、前を向いていてくれないと結わけません――と望美は抗議する。肩を竦めて前を向き直った弁慶の背へ、望美は見えないと分かっていても、優しい笑顔を浮かべて告げる。
「弁慶さんの髪だから、好きなんですよ。――結わくんで、動かないで下さいね」
 柘植の櫛を膝上に置いた望美は、新しい髪紐できゅっと弁慶の長髪を括る。解けないようにしっかりと結び終えてから、満足げに頷く。
「はい、出来ました。やっぱり弁慶さんには、緑が似合いますね。いい色があってよかった」
「ありがとうございます」
 目を細めて礼を言った弁慶は、望美と向き直るように座りなおしながら、もう一本残っている髪紐を手に取った。弁慶の髪を留める紐より、もう少し明るい色合いの緑。
 髪に合わせるなら桃色などの方が似合うだろうに『弁慶さんと同じ色がいいんです』と言い張って選んだ色だ。その時の望美の声を思い出し、弁慶の口元に淡い笑みが浮かぶ。
 何気ない一言ですら彼の幸福の源になると、彼女は知っているのだろうか。
「次は君ですね」
「お願いします。可愛く結んでくださいね?」
「ふふっ、努力しますが、君はそのままでも十分愛らしいですからね。僕の腕など無くても十分に可愛らしいですよ。あぁ、望美さん。そのままで構いませんよ」
 弁慶に背を向けようと立ち上がりかけた望美は、やんわりとした仕草で肩を押さえられ、不思議そうに顔を見上げる。
「え?」
「このままで出来ますから。櫛、お借りしますね」
 弁慶は望美と膝を突き合わせるような位置までにじり寄ると、彼女の背に流れる長い髪をそっと手に取り、一旦胸の前へ移動させた。手のひらで髪を支えながら、ゆっくりと艶やかな紫苑の流れを整える。
 梳る弁慶の視線は、どちらかというと髪の毛よりも望美の顔の方へと寄せられていて、望美は落ち着かない思いで座りなおす。
「えと、その……やりにくくないですか?」
「いいえ、別に。君の髪は長いですから、こうやっても十分梳く事が出来ますし、それに――」
 僅かに言葉を切った後、改めて望美の耳元で囁く。
「後ろからでは、君の顔が見えませんから。そんな勿体無い事は出来ません」
「毎日見る顔なんですから、勿体ないも何もないですよ」
 弁慶の甘いセリフに慣れたつもりでいても、不意打ちのように言われると、未だに頬が赤く染まってしまう。
「君のどんな表情だって、僕は見逃したくないんです」
 笑みを含みながらも、どこか真摯さを孕む声で告げた弁慶は、そのまま肩越しに望美の後頭部へと手をやり、手早く髪を結わいてしまう。
「はい、出来ましたよ」
「……わっ、早い!」
 驚いて後ろへと手をやれば、言われた通り、首の付け根で髪が一つに纏められている。しかも紐の端は飾り結びにされているのか、複雑な結び目の感触が望美の指に伝わってくる。
「花の、形?」
 ぽつりと呟けば、肯定の頷きが返される。
「緑の紐ですから花びらには見えないかもしれませんが、折角可愛い君を彩るものなのですから、形くらいはね」
 満足げに弁慶は応じると、望美のこめかみへ軽く口づけた。
「そういえば望美さん、髪留めを使わなくなったんですね」
 白龍の神子として戦場に立っていた頃、彼女は常に髪を下ろしていた。
(そうだ、確か九郎が『邪魔ではないのか』と聞いた事もありましたね)
 本来であれば、剣を扱うのに髪が視界を塞ぐのは鬱陶しいものであっただろう。九郎ですら、風が強い日は纏め髪が煽られて邪魔そうにしていたものだ。
 だが彼女は『前髪さえ落ちてこなければどうってことないですよ』と笑い、こめかみ付近に留められた小さな髪留めを指差してみせたのだった。
 ――いつからだろう。あの髪留めを、彼女の髪に見なくなったのは。
「髪留め? ああ、ヘアピンですか」
「へあぴん、というんですか。前髪のあたりで、ずっと留めていたでしょう」
「そうでしたね」
 望美は小さく首肯する。
「でも髪を結っていたら無くても不自由しないし、それに今は必要ないものですから」
「そうなんですか?」
 あまりにもあっさりとした返答に、弁慶の方が多少戸惑いがちに声を紡ぐ。
「そうですよ。――あ、弁慶さん。そろそろ薬草を摘まないと、日が昇りきってしまいます!」
 戸の隙間から差し込んでくる日差しは徐々に強さを増している。それを見咎めて望美は慌てた声を上げた。
「おや、しまった。急がないといけませんね。望美さん、少し手伝ってもらえますか? 朝食を作るのを僕もお手伝いしますから」
「もちろん、喜んで!」
 弁慶の差し出す手をとって立ち上がった望美は、手早く着物を着換えると、同じように着衣を改めた弁慶と共に外へ向かう。
(ヘアピン、か)
 渡された籠へ薬草を摘み取りながら、望美は今は遠い時空のことを思い出す。
 白龍の神子と呼ばれていた時、着衣は半分『京風』のものになったけれど、靴やピンは、彼女が生まれ育った時代のものがそのまま残されていた。
 朝起きて髪をとかし、ピンを前髪に留める。靴を履き、スニーカーの紐を締める。この時代では異質なものを身に纏う仕草は、自分がこの世界の住人ではないと――戻るべき場所があるのだと、確かめるような意味もいつしか生まれていたように思う。
 でも今は、もう必要ない。
 生まれ育った鎌倉や、そこに住む人々――両親や友人、今は元の時空へと帰った幼馴染。それらが懐かしくないわけではない。愛おしくないわけがない。
 それでも、ただひとつ選ぶならば、この人の手なのだ。
 隣で薬草を吟味する人に視線を向ければ、すぐに気づいて笑み返してくる。
 黒い外套に隠した軍師の微笑みではなくて、日の光溢れる中で輝く、満ち足りた笑顔。
「弁慶さん、ずっと一緒にいましょうね」
 突然の言葉にも、彼は驚く様子なく、彼女の好きな表情で返事をくれる。
「ええ、望美さんが嫌だと言っても離して差し上げませんから」
「言いませんよ。お馬鹿さんですね、弁慶さんは」
「君に関することだけは、どんな馬鹿なことだって口にしようと決めたんです」
 開き直った言葉に、望美の笑い声が弾ける。

 ――こうして、日々笑顔の絶えることのない薬師夫妻の一日は始まっていくのだった。

- END -

 

||| あとがき |||

前作の方に書いた「入らなかったセリフ」は『髪留めを使わなくなった』のあたりです。
靴もそうですが、ヘアピンって元いた世界を想起させるアイテムだと思うんですよね。元の世界のものは、もう使わない――そんな象徴的なことを、髪つながりでちょっと書いてみたかったのでした。

そういえば思わず弁慶に飾り結びなどさせてみましたが、きっと器用だから出来ますよね…?(紐類の取り扱いがうまそうなのは、ダントツでヒノエだと思いますが)


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