欲しいもの、ただひとつだけ
2009.10.11
無印恋愛ED…の、ちょっと手前くらい?
- 弁慶×望美
『私、この時代に残ろうと思うの』
そう宣言した望美は、その理由も目的も、何も話そうとしなかった。
口を噤み、首を横に振り、ただ一つだけ願った。
京に、私が一人で暮らせる家を下さい――と。
「……って言われても、色々難しいんだよねぇ~」
景時は京の地図を眺めながら、困惑の表情を浮かべた。
彼が広げている手書きの地図は、どこに誰が住んでいるのかを記してあるもので、役所で使う門外不出の品だ。それを景時が『職権乱用』で借り出してきたのである。
「そうね」
兄の隣に並んで、やはり同じように地図を眺め、朔も溜息を零した。
「めぼしい所はやはり空いていないわね」
「まだ京の治安は良いとはいえないし、ある程度安全といえる地域では、望美ちゃんが言う『小さな家』は無いんだよねぇ。空き家はあっても、武家屋敷の広さになっちゃう」
「えー、別にそんな良い場所とか考えなくても、どこでもいいですよ?」
ちょこんと座り、美味しそうに朔が入れたお茶をすする望美は、二人の渋面とは対照的にのほほんとした表情だ。
「あんまり町から離れすぎると買い物が不便かなぁと思うんだけど、でも大原とかその辺あたりまでなら、全く問題ないですよ。あ、六波羅とか、どうですか? あの辺だったら、小ぢんまりとした家の一つや二つ余ってないですかねぇ。それとも土地、高いんでしょうか。物価は多少分かるようにはなりましたけど、土地価格とかは分からなくって」
ご面倒おかけします、と頭を下げた望美を見て、景時は頭を抱えて卓に突っ伏した。
「いやホント、そういう問題じゃなくてね~」
「そうよ、望美。六波羅なんて言わないで頂戴。あんな危険な場所は駄目よ」
細い眉を吊り上げた朔の様子に、望美は驚いたように眼を見張り、あたふたと言い訳を言い募った。
「えー、でもヒノエくんの隠れ家とかあるじゃない? ヒノエくんのご近所とかも楽しそうだなっておもったんだけど」
「姫君が住むんだったら隠れ家の一つや二つ、喜んで譲り渡すけど――六波羅はオレもやめた方がいいと思うぜ?」
「ヒノエくん!」
声が届くと同時に背中に誰かの体温を感じ、望美はぱっと顔をあげて後ろを振り向いた。そのついでに、抱き寄せようと伸ばされた腕の持ち主向けて肘を繰り出す事も忘れない。
「っと、相変わらずいい反応だね」
肘撃ちが決まる前にヒノエは素早く手を解いて一歩下がる。ちっ、外したか、とかいう舌打ちが、神子姫さまの愛らしい唇から零れた気がするが、とりあえず聞かなかったことにする。そういう点、非常に都合のよくできているヒノエの耳だ。
「ごきげんよう、オレの愛しい姫君。景時、朔ちゃん、お邪魔してるぜ」
にっと笑い片目を瞑ってみせた熊野別当に、館の主とその妹は笑顔を向けて歓待する。
「ヒノエ殿、いらっしゃい」
「やぁ、よく来たね~。座って座って、今お茶を用意するよ」
一応、建前上は『部外秘』である地図を片付けながら、景時はヒノエへ座るように促す。
改めて望美の隣へと腰を下ろしたヒノエは、景時が入れてくれたお茶を受け取りつつ、先ほどの言葉をもう一度繰り返した。
「なぁ姫君。六波羅は本当にやめておけって」
「なんで?」
さらりと髪を揺らし、不思議そうに首を傾げる姿に、ヒノエは軽く片眉を跳ね上げた。
「六波羅って、今はあんなだけど、元は平家の土地なんだって知ってるよな」
「うん、以前聞いたよ」
望美はこくりと頷く。
「だから今でもあの辺には、元は平家に仕えてましたって――いう奴らも結構いたりするわけ。そして、オレの神子姫。お前、今まで皆になんて呼ばれてたか、覚えてるかい?」
真っ直ぐに真紅の瞳が望美を見つめる。
「え、それは白龍の神――…、ううん、違う」
ゆっくりと馴染んだ名を口にした望美は、はっとしたようにヒノエを見返した。
「源氏の、神子」
呟くように言い直した望美の表情を見て、ヒノエはゆるりと微笑む。まるで『よく出来ました』とでも告げるかのようだ。
「そう。平家を滅ぼした源氏の、ね。もうこれ以上は言わなくても分かるよな」
「……ごめん」
「謝る相手が違うよ、姫君?」
「うん」
素直に頷き、望美は向かいに座る景時と朔へ頭を下げた。
「景時さん、朔。ごめんなさい、それと、ありがとう」
良くも悪くも、望美の顔と名前は京の人々に知られている。
景時の邸にいる今はいい。源氏の軍奉行という景時の名がもたらす威光と、彼の暮らす屋敷という物理的な箱で守られている間はいい。だが、一人で暮らし始めれば、あらゆる庇護から外れることになる。
それを分かっていて、二人は『せめて出来るだけ安全な場所を』と頭を捻っていたのだ。
そのことにやっと気付いた。
「いやだ、望美! あなたが謝る必要なんてないわ」
「そうだよ。オレたちが君の事を心配するのは、八葉としても友人としても当然なんだから、かえって気にされる方が困ってしまうよ」
慌てる反応までそっくりな梶原兄妹に、望美の顔に明るい笑顔が戻る。その横顔に見惚れていたヒノエは、なんとなく指をのばして彼女の髪に触れながら、思い出したように問いかけを紡ぐ。
「ところでさ、望美」
「なぁに、ヒノエくん」
「そもそもなんでお前、一人で暮らすとか言い出したわけ?」
「ナ・イ・ショ」
うふふっと笑い、望美は首を傾げてみせる。他の三名は、その仕草の可愛らしさにちょっぴり見惚れるが、それに誤魔化されたりしないのがヒノエである。
「前から何度聞いても理由を教えてくれないけど、それ、どうしても絶対に言えない事?」
「絶対って言うわけじゃないけど」
完璧な笑顔のまま、望美はヒノエを見つめる。
「オレにはいえないこと? それとも――」
チラリと梶原兄妹を見る。
「ここでは言えないこと?」
笑みを消した望美は、一瞬だけ景時たちの座る方向を見遣り、まるで瞬くように――しかしそれよりは長く、そっと目を伏せた。
その動きが答えだった。
景時と朔が揃って席を外し、残った二人は並んで座ったまま、暫く無言でお茶を飲んでいた。
互いの茶碗が空になった所で、ようやく望美は口を開いた。
「私ね、戦いが終わって、ぜんぶ終わって――そうしたらやりたいことがあったんだ。でも、それはどうしてもこの世界じゃなきゃ出来ないことなの」
ヒノエは黙って続きを促した。
「だから『帰らない』って言って、京に家が欲しいってお願いしたんだ。白龍の神子じゃなくて、ただの春日望美としてやり遂げたいことだったから、ここで景時さんや朔に守られて過ごすのは駄目だなって思ったの」
「そのやりたいことっていうのは、京じゃなきゃ駄目なのかい?」
「どうかな……京だと色々楽かな、とは思うけど」
一番慣れ親しんだ町だしね、と応じる望美へ、ヒノエは何気ない口調で問いかける。
「熊野じゃ駄目なのかい? 姫君のご希望にそうような小ぢんまりとした、でも過ごし易いような家を、すぐに都合するぜ」
「んー、熊野かぁ。夏でも涼しいし、ご飯も美味しいし、住むのにはいい場所かもしれないけど、ちょっと遠いよ」
「――誰から遠いっていうんだい?」
『何処』ではなく『誰』と問うヒノエの声は、確信に満ちた強さを以て望美の胸を抉った。見えない痛みを感じて、ひゅっと望美の喉が鳴る。それを押し隠すように唇を噛み、反論の科白を探して翡翠の視線が彷徨う。
ヒノエは半胡坐をかいた膝の上に肘を乗せ、頬杖をつきながら溜息交じりに口を開いた。
「口にするのもムカツクんだけどさ、お前が京に残るって言った時、弁慶の奴と一緒に暮らすんじゃないかと思っていたんだよな。だけどお前は一人で暮らすとか言い出すし、訳わからなくってさ」
「やだなぁ。弁慶さんとなんて、そんなことあるわけないじゃない」
望美は明るく笑って見せるが、声の響きが表情を裏切っている。ほんの些細なズレだったけれども、ヒノエは気付いた。
「そうかい? 清盛との戦いが終わった後なんか、オレにはそう見えたけどね」
「気のせいだって」
「姫君がそう言い張るなら、それはそれでいいさ。だけど京に住みたいのは、アイツがいるからだよな。住む場所としてはいいって言ってくれるのに、希望の家もすぐに用意するよって言っているのに、熊野を選ばないのは、そういうことじゃないのかい」
ヒノエの視線の強さは、まるで望美の嘘と真実を見極めようとするかのようだった。彼の表情に記憶を揺さぶられ、望美は小さく笑みを漏らす。
(ああ、なんかあの時みたいだ)
熊野で初めてヒノエに出会ったときを思い出す。
軽い言葉や態度で隠しながら、時折鋭い刃のような問いかけを投げてくるヒノエは、熊野とその将来の為に源氏の――白龍の神子という存在を値踏みしていた。
その時は違うけれど、相手の言動から真意を探ろうとする態度は、いまの望美の虚言を見破ろうとするのと大差ないのだろう。
(あー、もう、ヒノエくんには勝てないよなぁ)
ただの、というにはちょっと経歴が特殊になった気もするが、基本的に普通の女子高生である自分と、熊野別当として実績を築いてきているヒノエとでは、そもそも勝負になるはずが無い。
ここで誤魔化しても、いつか洗いざらい吐かされる事は間違いないだろう。
内心で負けを認めた途端、相対するヒノエの空気もふっと緩んだ。その和らいだ雰囲気につられるように、初めて望美は己の願いを『音』として紡いだ。
「うん、ヒノエくんが言う通り、私は弁慶さんの傍にいたいからこの世界に残ったんだよ」
「アイツと何か約束でもしたのか?」
「全っ然。私が勝手に思ってるだけ」
一度口にしたら楽になったのか、望美は言い澱む事も無く言葉を紡ぐ。
「だってほら、怨霊はいなくなって、平家との戦いも終わったけれど、九郎さんとか忙しそうにしてるじゃない。もうちょっと落ち着くまでは、弁慶さんもそういうことを考えてくれないんじゃないかなぁって思ったんだ。それに、そもそも好きだとか嫌いだとか、そういう話をしたことないから、まずは好きになってもらう所から始めないと」
「ちょっと待て、あんだけベタベタしておいて、好きになってもらうも何もないだろ!?」
思わずツッコミを入れてしまうヒノエである。
「ヒノエくん、しーっ!」
反射的に望美は、ヒノエの口に片手をあて、声を顰めるように懇願する。
「お願い、静かに、ね?」
「はいはい、仰せのままに。でもさ――望美」
肩を竦めたヒノエは、自分の口元を覆っていた望美の手を取ると、その甲に小さく音を立てて口づけた。まるで何かに宣誓するかの如く、彼女の眼差しを下から覗き込むようにして語りかける。
「大事なものが一つきりなんて、誰もそんなことを決めちゃいない。オレだったら熊野もお前も、両方とる。我侭と言われようが、欲しいものは全部手に入れてみせるよ」
「うん、ヒノエくんはそんな感じだよね」
くすりと、楽しそうな笑いを望美は零す。
いつだって自信たっぷりで、勿論それには色んなものが裏打ちされているのだけれど、彼の強気で前向きな言動は、いつだって望美へ前に進む勇気を与えてくれていた。
「弁慶だって、そこまで狭量な男じゃないとオレは思うぜ」
「そうかもしれない。でもね、私は無理。不器用だから、ひとつひとつ積み重ねていくことしか出来ないの。それに、本当に欲しいものはたった一つだから、そのために待つことなんて苦じゃないよ」
指先を絡めとろうとするヒノエから逃れ、望美は鮮やかな笑顔を浮かべた。
花綻ぶ様な笑みは、誰か別の男を想って浮かべられたものだと分かっていても、ヒノエの言葉を暫し奪った。うっかり彼女に見惚れた後、ヒノエはわざとらしい溜息をつき、肩を竦めてみせた。
「あ~あ、ほんっと妬けるな。オレもそれ位、姫君に思われてみたいよ。――なぁ、弁慶?」
「え?」
最後を、微妙に張り上げた声音で告げたヒノエの言葉に、ぴしっと望美が凍りついた。
「べ、べ、べ、べん…けい、って……?」
恐る恐る振り向いた視線の先に、戸口に半身を隠しながら佇む人影があった。僅かに首を傾げ、座る二人を見下ろしている墨染めの衣。
「こんにちは、望美さん、ヒノエ。少しお邪魔させて頂きますよ」
室内に入ってきた弁慶は望美の前へ膝をつくと、隣に座るヒノエを見据えた。
「ヒノエ。望美さんと二人で話したいのですが、席を外してもらえませんか?」
「断る。……って言いたい所だけど、ここは貸しにしてやるよ」
ヒノエは立ち上がりざま弁慶の外套に手を伸ばし、彼の頭を覆う布を乱暴に取り払った。ばさり、と音がして彼の淡い色の髪が顕わになる。思った以上に強い力だったのか、僅かに弁慶の上体が揺らいだ。
乱暴な仕草に眉を顰めた弁慶は何か言いたげにヒノエを見上げたが、向けられた表情を見た瞬間、その口を閉ざした。そして、少し迷った後、短く礼の言葉だけを告げる。
「ありがとうございます、ヒノエ」
「礼を言われることじゃないよ。つーか貸しだから、貸し」
肩越しに手をひらめかせ、部屋の外へと向かったヒノエは、入り口の戸を閉める前に改めて望美の名を呼んだ。
「望美。さっき熊野に来ないかって言ったけど、あれは冗談や慰めじゃないから、忘れるなよ」
淡々と――いつも感情たっぷりに話すヒノエにしては本当に珍しく、抑揚の低い声で告げて戸を閉めた。
遠ざかる足音が聞こえなくなるのを待って、弁慶は望美へ視線を戻した。そのままじっと、眼前に座る少女を見つめる。
望美はヒノエが去った後、ずっと俯いたままだ。
(ど、どこから話を聞かれていたんだろう!?)
彼女の脳裏を巡るのは、ただそれだけである。
一方の弁慶はといえば、ヒノエを遠ざけては見たものの、実際何から話せばいいのか、彼自身も分かっていなかった。それでも黙って向かい合っているだけではどうしようもないので、望美に声をかける。
「望美さん、顔を上げてくれませんか?」
「嫌です」
「即答ですか。僕もつくづく嫌われたものですね」
ふ、と切なげに息を吐いてみせれば、慌てたように望美が顔を上げる。
「そんなことないです!」
反射的な行動だったが、望美が気付いて顔を逸らす前に、弁慶はその頬を両手で挟むようにして捉えた。やんわりと、だが逆らえない強さで正面を向かせ、間近で瞳を覗き込む。
「じゃあ、好きですか?」
「――好きですよ。大切な八葉の仲間ですもん」
「それは白龍の神子としての答えですよね。でも、僕はそんな答えは要らない」
少女の頬から手を離し、その細く柔らかな身体を抱きしめると、低く囁く。
「僕はね、源氏の軍師を辞めるんです」
「えっ?」
驚いて顔をあげようとするが、後頭部に添えられた弁慶の手がそれを許してくれない。
「忙しいのは戦後処理もありますが、どちらかといえば後任への引継ぎをしているからなんです。全て終えて、只の武蔵坊弁慶っていう男になったら、君に問うつもりでいました。それが僕なりのけじめだと思っていたんです」
「けじめって、何のですか?」
不安と慄きが混ざる声で望美は聞く。
「けじめはけじめですよ。……ねぇ望美さん。白龍の神子でも、源氏の神子でもない君に聞きます。この世界に君が残ったのは僕のためだと言っていたのは、僕の聞き違いではないですよね?」
質問のようでいて、断定に似た声音のそれに、望美は恥ずかしさと悔しさがごちゃ混ぜになった声で応じる。
「……立ち聞きなんてずるいです。いつから聞いていたんですか?」
「それは秘密です。そもそも、君たちの声が大きいのがいけないんですよ。まぁヒノエは半分、僕に聞かせるように喋っていた感じもしますが」
「仲良しさんですね」
嫌味のつもりで言って見たら、満面の笑みが戻ってきた。
「僕の甥っ子は、素直じゃないところが本当に可愛いんです」
ヒノエが聞いたら苦虫を纏めて噛み潰したような顔を浮かべるに違いない科白を、弁慶は笑み交じりの声でさらっと口にする。耳元で響く声がくすぐったいのか、少し身を震わせて望美は笑った。
小さく、だけど晴れやかな笑い声が弁慶の耳に届いたあと、少女の腕が彼の背を抱きしめた。
「少し妬けます」
「僕はずっと譲くんや将臣くんに嫉妬していましたよ。僕の知らない君を知っている二人にね」
優しく揺れる藤色の髪に頬を寄せ、弁慶は普段なら口にしないような思いを告白をする。
「望美さん。あの日、僕を此岸へと引き止めたのはあなたです。だから、その責任をとって欲しいんです」
「責任って……?」
「僕がまた間違えたりしないように、共に歩いてくれませんか? 生涯の伴侶として」
望美は驚いて、首を捻じ曲げるようにして弁慶の顔を覗き見た。
外套に覆われていない顔は、普段よりもずっと表情がはっきりと見えて、あぁだからヒノエくんはあんな事をして出て行ったのか、と納得する。
遮る物無く彼女の姿を移す琥珀の瞳は、柔らかく綻んで作り物ではない笑みを湛えていた。
――望美がずっと見たかったものが、そこにあった。
誰かの為に笑って見せるのではなく、ただ嬉しい気持ちや幸せな思いを映し出すものとして、彼が笑う姿を見たかった。
不意に視界がぼんやりと霞んで何もかも見えなくなった。彼の笑顔をもっと見ていたいのにどうして、と思って戸惑っていたら、目尻に温かくて柔らかなものが触れた。肌を吸われる感触に続いて、小さく濡れた音が耳に届く。そうして初めて望美は、自分が泣いていた事に気付いた。
「望美さん、泣かないで。僕はまた、何か酷い事を言いましたか?」
眦に口づけて望美の涙を拭った男は、落ち着いた声とは裏腹に、酷く焦った表情を浮かべていた。
何度と無く彼女を泣かせてきた自覚のある弁慶だったが、それぞれに泣かせた原因は理解していた。だから慰める方法もすぐに思いついたが、今は彼女の涙の理由が全く分からず、どうしようもなく戸惑っていた。
「ううん、言ってない、言ってないよ。ただ嬉しいだけ」
背に回した腕に力を込めると、安堵の溜息が望美の耳元に届いた。
「望美さん、返事を聞かせて貰えませんか?」
きちんと君の言葉で聞きたい。
そうねだる弁慶が可愛らしく見えて、望美は幸せな思いをそのまま唇で刻む。
「ずっと傍にいます。責任とかそんなの関係なく、弁慶さんが好――」
思いを伝えようとした言葉は、弁慶が重ねてきた唇のせいで途切れて消える。
「良かった。君がヒノエの誘いに乗って、熊野に行ってしまったらどうしようかと本気で悩みました」
望美の顔のあちこちへ触れるだけの口づけを落としながら、弁慶は小声で呟いた。
「敦盛さんも熊野にいるっていうし、遊びには行こうかなぁって思っていますけど」
「遊びに行く程度なら我慢しますが、でも、一人では駄目です」
「どうして? 道中危ないから? そんなに私、危なっかしいですか?」
弁慶の胸元に手を突いて身体を離し、望美は彼の顔を見上げる。
不満げに軽く唇を尖らせる様子も可愛らしくて、衝動のままに望美の身体を抱きしめる。
「違いますよ」
驚いたようにしながらも、素直に体重を預けてくる存在が愛しい。彼女のぬくもりは穏やかで柔らかく、触れるたびに失えないという思いが強くなっていく。
弁慶にとって、思ったままの言葉を素直に紡ぐ事はまだ難しいけれど、彼女と過ごす日々の中で変わっていける気もするのだ。
「共に歩いて欲しいと、そう言ったでしょう? だから、どこに行くにもふたり一緒ですよ」
ねぇ、忘れないでいて。
欲しいものはただ一つ。
私の隣にいる、あなたの笑顔。
- END -
||| あとがき |||
ちなみに此岸(しがん、と読みます)は、仏教用語(のはず)なんであまり聞きなれないと思いますが、三途の川をはさんであっち(彼岸)とこっち(此岸)ってことです。
普段は忘れている単語ですが、先日あった法事でお坊さんが語っていたので使ってみました。
弁慶さんんなら使いそうですよね…?(望美に通じるかは別として)

